「地下鉄銀座線の『トリビア』本当か調べてみた」は本当か調べてみた

東京メトロ公式サイトより
[1927-1936]都市交通の立体化

東洋経済の記事「地下鉄銀座線の『トリビア』本当か調べてみた」が、ちゃんと調べたとは思えない出来なので資料を提示する。記事を読む限り、筆者はデパートに聞いた話を元に考察しているが、鉄道会社には問い合わせをしていないし、建設史などの資料もちゃんと読んでいないことが分かる。

三越前の「定説」はウソだった? 忘れちゃったの、三越さん!

三越前駅の「定説」はウソだった?【確証度B】

銀座線の豆知識の中で『定番』といえるのが、三越前駅ネタ。「三越前駅は、三越が駅の建設費をすべて負担して造った駅。そのため、駅名に店の名前がつけられた」というものだ。

この事実の真偽を確認するため、三越の社史を編纂する担当者に取材を申し込み、話をうかがったところ「過去に出版された社史や、現在残されている資料を確認したが『駅名を三越前駅とする代わりに建設費をすべて負担した』という資料は出てこなかった。駅の改札口と三越の地下フロアを結ぶ通路は、三越が負担して造ったという資料はありましたが」という定説を覆す事実が出てきた。

これは当時東京地下鉄道と三越が交わした協定の内容に関わる話なので、最終的には協定書そのものを当たるしかない。三越側が内容を把握していないなら東京メトロに聞くしかないのだが、ちゃんと聞いたのだろうか。三越にとって協定の「重み」がいかほどかは分からないが、鉄道会社からするとこれは「現役の協定」であり、すぐに分かる。

で、東京地下鉄道史にも経緯はちゃんと書いてある。

東京地下鉄道史(乾)p.344-345(国会図書館デジタルコレクション

真ん中のあたりに、工事現場を見学した池田成彬が「地下鉄とデパート繋いだらいいんじゃね?」と思いついて、専務を遣いによこしたこと。三越側から「要する費用は三越が支弁する」と申し出があったことが書かれている。

三越と東京地下鉄道は1931(昭和6)年6月に、駅名を「三越前」にすること、駅の飾り窓は三越が無償で使うことを条件に、駅のほぼ全建設工事費に当たる46万3千円を三越が負担する契約を交わしている。

さらに話を聞くと「三越前の駅名の話題は、さまざまな媒体で登場しているが、たくさんの場所で出まわりすぎていて、紹介しているところ1つ1つに連絡を入れるのもキリがない」という理由や、三越側に確認の連絡などもないので、特に関知していないとのことだった。

これは三越の社史編纂室の方のコメントだそうだ。三越内における彼らの立ち位置は分からないが、広報担当の方と銀座線三越前駅がらみの仕事で間接的に関わったとき、三越側は上記の池田成彬のエピソードを知らなかったので、それもどうなのかなと思う。

赤坂見附駅は、開業当初から二層式のホームだったのだけども

赤坂見附駅は、開業当初から二層式のホームだった【確証度A】

この件に関しては、銀座線や丸ノ内線の建設史に記されているので、紙資料だけで事実であることは確認できるが、赤坂見附駅に行っても、その痕跡をうかがうことができる。

丸ノ内線のホームへ行き、天井を観察すると、銀座線の上野駅や虎ノ門駅などで見られる、リベットを使用したイボイボの鉄骨が残っているのだ。

赤坂見附駅は開業当初から二層式のホームだったのは弊ブログの読者ならご存知の通り。これは正しい「トリビア」なんだけども、あなたが見た丸ノ内線ホームの鉄骨は開業当初のものじゃないですよ!

戦前に計画された赤坂見附駅ホームの痕跡を見てきた

丸ノ内線部分の鉄骨は戦後に拡張された部分。開業当初から使われているのは銀座線側の鉄骨だけ。プラスアルファの情報を付け足そうとして、踏み外したパターン。

デパートの力で急きょ作られた上野広小路駅のことはちゃんと書いてあるよ

デパートの力で急きょ作られた上野広小路駅【確証度B】

そんな計画を聞きつけた当時の松坂屋の専務、小林八百吉が、大学時代の後輩で東京地下鉄道の創始者、早川徳次に「デパートに隣接する場所に駅を造れないか」と頼み、建設予定のなかった場所に上野広小路駅を造った。急きょ建設された駅なので、片側のホームだけがデパートに隣接する、変わった構造の駅となったのだ。

このことが事実かどうかを調査するために松坂屋の社史や広報誌を見せていただいたところ、上野広小路駅建設の経緯が、上述のような感じでハッキリと書かれていた。

ただ、東京メトロ側の資料を確認することができなかったので、確証度はBレベルか。

東京メトロ側の資料を確認するのも重要なんだけど、東京メトロには聞いてみなかったのだろうか。なお、東京メトロ側の資料にだって書いてある。さすがに個人的な関係の話は大っぴらに書いていないものの、着工後に松坂屋から申出があって「超スピード」で駅を建設したことは東京地下鉄道史371ページの真ん中あたりに明記されてるよ。

東京地下鉄道史(乾)p.371(国会図書館デジタルコレクション

あとこの項目は「片側のホームだけがデパートに隣接する、変わった構造の駅」という事にやたらとこだわっている。確かに中二階(コンコース階)で接続する三越前や日本橋、銀座などと比較して特異に見えるのだろうけれども、これは該区間のトンネルの構造そのものに起因する話。

銀座線の駅は田原町から末広町まで、上野を除いて駅に中二階を設けず、ホームから直接地上にあがる構造になっている。その分トンネルが浅く済むというわけだ。しかし特殊な構造の神田を挟んで、三越前から新橋までは全て中二階が設置されている。その分トンネルは深くなってしまうが、都心部の各駅で地下鉄ストアを展開していきたいと考えた東京地下鉄道と、地下駅を地上道路を横断するための自由通路として活用したいと考えた東京市の思惑が絡んでできたようだ。

岡本太郎の壁画は90周年の部分には何にも関係ないのでは

岡本太郎の壁画でもてなした日本橋髙島屋【確証度A】

日本橋駅の渋谷寄りの改札口を出て少し渋谷寄りに歩いた場所から、髙島屋の地下1階の入口までの通路は、髙島屋が内装を担当する地下通路。現在は工事中のため、壁に囲いなどができているこの通路は、地下鉄開業当初から髙島屋が全力をかけて利用者をおもてなししていた通路だった。

担当者を訪ねて話を聞いたところ、この通路は日本橋髙島屋に来店する人の4割が利用するという、お店にとって一番大事な場所。通路の所有者は東京メトロだが、髙島屋では床に使う大理石を提供するなどして、利用者をもてなしているという。

地下鉄運輸五十年史(総括編)に「上野広小路、三越前その他デパート所在駅は、関係店が駅の建設費や装飾を援助している」とあるので、建設費だけでなく装飾関係にも直接関わっていたようだ。そこまで細かいことは社史には書いてないので、手元の資料では分からないがこれは地下鉄側の資料にあたらずに「確証度A」でいいのだろうか。

と意地悪はさておき、日本橋についても駅の建設費はデパートから出ている。高島屋が22万円、白木屋(後の東急デパート)が26万円、これでほぼ全額に相当するそうだ。

90年前から同じ? 三越前のエスカレーターがってそんなわけあるか

90年前から同じ?三越前のエスカレーター【確証度C】

前述の、銀座線リニューアル情報サイトの三越前のトリビアが書かれたページには、開業当初の三越前駅の写真が掲載されている。

その中の1枚に、駅の利用者がエスカレーターを使っている写真がある。三越につながる改札付近で撮影されたものと思われるが、現在の様子と比べると、エスカレーターの構造が実に似ている。

ホームから三越方面の改札口へとつながるエスカレーターは、金属の部分が金色の、他の場所では見ることができない年季の入ったもの。ベルトやコンベア部分は、安全の観点から新しいものに変わっているだろうが、基本部分は開業当時から使われているかもしれない。

こちらに関しては、まったく確証が取れなかったので、確証度はCということで。

地下鉄運輸五十年史にはエスカレーターについて以下のように記されている。地下鉄初のエスカレーターは三越の費用負担で1932(昭和7)年4月に設置されたが、戦争中に金属供出のため撤去されてしまった。再設置されたのは戦後しばらくたって1960(昭和35)年3月のこと。

撤去から再設置までの間、そのスペースがどうなっていたかを示す資料は見つからなかった。トラス(駆動部を入れる土台部分)をそのままにしておくのは危険だから、埋めて階段にしていたのか、ちょっと気になる。

おっと、ここにも三越前の建設費負担の話が出てきましたね。