戦前に計画された赤坂見附駅ホームの痕跡を見てきた

[1937-1945]戦時輸送の時代

以前こちらの記事でも取り上げたように、赤坂見附駅は将来の新宿方面への分岐を想定して、1938年の開業時から上りホームと下りホームの上下二段構造の駅となっていました。

【新橋駅幻のホームの謎を追え!】第5回 渋谷と新宿の両方から浅草まで乗り入れるY字線計画

日本鉄道史の第一人者である故原田勝正氏が1992年に記した随筆には、開業直後の地下鉄に興味を抱く12歳の原田少年の思い出が綴られています。

地下鉄道の両社はこの年七月四日交通事業調整によって帝都高速度交通営団に統合されていた。一九三九年九月一六日に直通運転を開始していた両社の電車は、営団の電車として神田から乗ったわたくしをそのまま赤坂見附に運んだ。赤坂見附の駅で、渋谷行は上のホームに発着する。ホームに降りて、何か異様な感じがした。線路の反対側が壁で仕切られ、その壁は、いづれも仮の設備というかたちである。すぐ改札口を通らず、下の、浅草行のホームに下りてみた。ここも同様である。

出典:原田勝正(1992)「幻の防空用地下鉄道」『日本歴史 524号』

赤坂見附駅ホームには仮壁が設けられていましたが、原田少年が気配を感じた壁の向こうには既に線路が敷かれていました。これは『丸ノ内線建設史』にも「赤坂見附駅は東京高速鉄道会社時代に上下2段の連絡駅として丸ノ内線用の部分も完成していた」と書かれている通りです。

現在の駅で例えると半蔵門線住吉駅のような構造で、違うのは反対側の線路が見えるか、見えないかだけです。

住吉駅の反対側ホームは柵でふさがれており線路や留置中の電車が見える Photo by Nyao148 (CC by 3.0)

赤坂見附駅の反対側の線路は、戦時中に空襲を避けるため電車を隠しておく地下留置線として使われていたという記録もあり、営業には用いられないまでも、戦前から鉄道施設として使われていたことが分かります。

戦後丸ノ内線を建設する際にこの構造を活用して銀座線と対面乗り換えができるようにするわけですが、既設ホームの幅員は5mほどで、戦後の利用者数を考慮すると狭すぎるので、結局構築の一部を取りこわしホーム幅員を8m~11mに拡張して作り直しています。

この図面(断面図)の斜線の部分が丸ノ内線建設時に増築された構築です。それ以外の部分は1938年の建造時そのままの構築です。左に2本ある柱が戦前に立てられたもの、右の斜線部にある柱が増築時に設置されたものだということが分かります。

というわけで現地に行ってみるとこんな感じになっています。上の断面図とは向きが逆になっており、柱も化粧板が巻きなおされていますが、下の写真の真ん中から右側に2本並んだ柱が戦前からあるもの、丸ノ内線の前に並んでいる柱があとから追加されたものです。

ということを踏まえて改めて写真を見ると、当初のホーム幅がいかに狭かったが分かると思います。第三軌条規格のトンネルを用意してあった日比谷線銀座駅の交差部と同様に、準備工事といってもどこまで見越して準備できるかは、なかなか難しいということです。

今度赤坂見附に行く機会があったら、もしかしたらあり得たかも知れない姿を想像してみるのもいいかもしれません。ただ乗り換え利用者で錯綜してるのでぼーっと立ち止まってると危険ですよ。