日本の鉄道はなぜ時間に正確なのか(1)―鉄道が形成した近代的時間意識

[1872-1902]

日本の鉄道は遅れない、時間に正確だと言われています。

実際はどうなのか、本当なのかはここでは触れません。列車遅延に関する世界共通の指標はなく、海外と比べてどれだけ正確であるかを数字で比較することは非常に困難だからです。近年は海外の鉄道会社もサービス向上に力を入れており、その目安として「定時運行率90%以上」といった数値目標を掲げていたりもしますが、「定時」の定義が5分だったり10分だったりそれ以上だったりまちまちです。

それでも国鉄百年史に以下のような記述があるように、戦前の時点で「日本の鉄道は正確だ」という語り口があったことは確かなようです。しかしその正確さは「勤勉な日本人」が鉄道を動かした結果自然とそうなったわけではなく、明治時代の列車は相当遅れていたと語られています。

戦前の日本の鉄道は、運転時刻の正確さが世界的に評判であり、誇りであった。日本を旅行するには、鉄道が寸秒も違わず運転されるので車中では時計は不必要だと外人は日本の鉄道をほめた。しかし、この大きな名誉の正確さも、明治5年からあったわけではなく、外人から教わったものでもなかった。明治30年代は列車は相当遅れていた。

出典:「鉄道を育てたひとびと」『日本国有鉄道百年史通史編(1974)」

では日本の鉄道はいつから時間に正確になったのか、なぜ正確になったのか、そしてどのようにして定時運行を実現してきたのでしょうか。こうした疑問に答えるためには、歴史という縦軸に加えて鉄道システム全体を横断的に分析する必要があり、それを満たしてくれる本は意外と少ないのが実情です。

 

明治5年の日本は鉄道だけ違う時間が流れていた

新橋と横浜を結ぶ日本で初めて鉄道が開通したのは1872(明治5)年10月14日のことです。現在でも10月14日は「鉄道の日」とされており、鉄道が誕生した日を祝して各種イベントが行われています。

ところが開業当時の暦では、開業日は「9月12日」だったことをご存知でしょうか。なぜ「誕生日」は書き換えられてしまったのでしょうか。それは明治5年まで日本では太陰太陽暦いわゆる旧暦を使用していたからです。旧暦では1か月は月の満ち欠けに合わせて進みます。また時刻も日の出から日没までの時間を昼、日没から日の出までの時間を夜として、それぞれ6等分して時間を決める(つまり季節によって時間の長さが変わる)不定時法が用いられるなど、当時の時間感覚は自然の移り変わりを基準としたものでした。

明治維新によって成立した明治政府は、西洋の技術や制度を導入して日本の近代化を進めます。暦についても欧米と統一するために太陽暦へ改暦することになり、明治5年12月2日を以て旧暦が終わり、翌日から新しい暦による明治6年1月1日が始まることになりました。またその一環として現在使われている(いつでも時間の長さは変わらない)定時法の時刻制度が定められました。


(開業時に使われた1号機関車:筆者撮影)

旧暦の明治5年9月12日に開業した鉄道は不定時法の中を走っていたわけですが、日ごとに長さの変わる時間を基準にしては列車を走らせることはできないので、鉄道は開業時から独自に定時法を使って営業していました。つまり、明治5年の日本において鉄道だけが違う時間の流れの中に存在していたことになります。明治6年になってようやく日本が鉄道に追いついたのです。

では日本人の時間意識も明治6年1月1日を以てまるっきり変わったのかというと、もちろんそんなことはありません。日本人に近代的な時間意識が定着するためには、それから長い年月と、様々な技術の普及、社会制度の変化が必要になるのですが、そこで鉄道が大きな役割を果たしたのではないかと言われています。ただその謎を解き明かすためには歴史の縦軸と、鉄道システム全体を俯瞰する横軸両方を押さえなければならず、それを満たしてくれる書籍はなかなかないのが実情です。

 

鉄道が日本人に近代的な時間感覚を教えた

今回紹介したいのは『遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成(三元社,2001年)』。面白いタイトルですが中身は時間に関するまじめな論文集です。私が購入したのは2010年発行の第10刷ですが、残念ながら現在は新品では手に入らないようです。

この本は、幕末に近代式海軍術を教えたオランダ人の「日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ」という言葉から始まります。満潮時に届くように注文した木材がいつまでたっても届かなかったり、新年のあいさつに出た使用人が2日も戻ってこなかったり、当時の日本人は近代人たるオランダ人から見たら信じられないほどのんびりとして時間にルーズな国民だったのです。こうした「日本人の習性」は幕末から明治初期にかけて来日した多くのお雇い外国人が証言しています。

そんな日本人のルーズな時間規律は、明治の世になってから鉄道・工場・学校などの近代的装置によって訓練され、大きく変わりました。本書では「鉄道」「労働管理」「学校や家庭」「時計」の4つの視点から時間意識と生活の変遷をたどっていきます。鉄道関係は下記の2本が収録されています。

第1章 中村尚史「近代日本における鉄道と時間意識」
第2章 竹村民郎「一九二〇年代における鉄道の時間革命―自動連結器取替に関連して」

中村尚史の「近代日本における鉄道と時間意識」は、明治初年から日清・日露戦争期まで、すなわち日本において近代時間意識が形成された時期における鉄道と時間意識の関係を考察しています。

たとえば、1872年5月に発行された日本最初の時刻表には以下のように記されていました。

来る五月七日より此表示の時刻に日々横浜併に品川「ステイション」より列車出発す。乗車せむと欲する者は遅くとも此表示の時刻より十五分前に「ステイション」に来り切手買入其他の手都合を為すべし。(中略)発車時刻を惰たらさるため時限の五分前に「ステイション」の戸を閉ざす可し。

鉄道の正式な開業日は明治5年9月12日(新暦10月14日)ですが、実はその4か月前から品川・横浜間で仮営業を開始しています。この「案内」はその時のもので、鉄道に乗りたければ15分前までに駅に来て準備をせよ、5分前に駅の扉を閉めるので遅れたら乗せないというのです。前述のように明治5年の日本は不定時法の世界です。江戸時代の日本人が日常的に用いた時間の最小単位はせいぜい「小半刻(約30分)」と言われているので、15分前行動は未知の世界の要求だったことでしょう。

官営鉄道が大成功を収めると、各地で私鉄が設立され、鉄道路線の建設が進みます。各社は官営鉄道に学び、準じた規則を定めて鉄道を運行しました。路線網の拡大につれて会社をまたいだ連絡運輸が増加し、輸送力と安全を確保するためにも時間管理はますます重要になります。ところが、19世紀末にかけてあまりに急激に鉄道網が拡大したために人材・教育が不足し、時間意識の徹底がなされなかったので、1900年頃の鉄道は事故が頻発し、遅延が常態化するなど非常に混乱していたといいます。

近来私設鉄道の列車がその発着時間を誤まることは毎度のことで、時間通りに発着するは稀で、遅着が殆ど通常になって居り、時間の整斉を以て第一の務めとすべき駅員自らさへも遅着を普通の事と看做して敢て怪しまぬ位ひである。或る鉄道にては一年中ほとんど定時に発着したことなしと云い、ある鉄道の発着時間は遅刻を意味した一種の謎言となり居ると云っひ、且つ其遅着も五分十分の差にあらずして、三十分より一時間位も遅るること敢て珍しからずと云ふ。

当時の時間感覚がどれだけルーズだったか示すエピソードとして、当時日本最大の私鉄であった日本鉄道は1903年の規程改定で、それまで鉄道員が出勤時刻に1時間以上遅れた場合を遅刻扱いとしていたのを、少しでも遅れたものを遅刻とすることに改めたというものがあります(列車の遅延ではありません、人間の遅刻です!)。しかし、そうやって少しずつ時間規律を徹底していったのです。

青森から下関まで本州の鉄道が繋がったのが1901年、日露戦争を経て鉄道が国有化されたのが1906年なので、鉄道ネットワークを闇雲に量的拡大させる時代から質的向上にも意識を向ける時代へと、日本の鉄道が次のステップに入った時期だったと言えるでしょう。

「最急行列車」の画像検索結果
(最急行列車に用いられた蒸気機関車:出典

それを象徴するのが1906年に東海道線の新橋・神戸間で運行が開始された「最急行列車(現在で言うところの特急列車)」で、関東と関西の速達だけでなく途中駅で各地方への接続列車を多く設定したために、1本の列車の遅れが鉄道ネットワーク全体の機能を左右するようになりました。列車の本数も少ない時代なので、分単位の遅れが半日・一日のロスにも繋がってしまうのです。そうした経験を経て鉄道員・利用者ともに分単位の時間意識が形成され、厳しい時間規律が求められる時代が始まっていくのです。

とはいえ意識をしたからといってすぐにできるようになるわけではありません。最急行列車が走る東海道線はともかく、それ以外の地方路線ではそこまでの時間感覚は求められなかったでしょうし、時間を守ろうにも設備が要求に追いついていない現実もありました。なんせ東海道本線が全線複線化されるのはようやく1913年になってからのことなのですから。

それではどうやって定時運行が実現していったのか…その手掛かりとなる次の章については、長くなるので次回に続きます!

日本の鉄道はなぜ時間に正確なのか(2)―100年前に運命づけられた定時運行