100年前に実在したエプロン姿の22歳女性駅長!?―日本女性鉄道員史(前編)

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[1872-1902]

私の妄想でも、ライトノベルの話でもありません。沢和哉『日本の鉄道ことはじめ』によれば、日本初の女性駅長は1915年に高野鉄道(現南海高野線)芦原町駅長に就任した衣川春野さんと言われています。

現在の芦原町駅は無人駅となっている Photo by Tennen-Gas (CC BY 3.0)

衣川さんは当時22歳、黒い事務服にエプロン姿で勤務していたそうですが、現在流行りの猫駅長やら一日駅長の類のお飾りではありません。きっぷの発売も改札業務も全部ひとりでこなし、列車に発車合図も行うれっきとした鉄道員で、さらに乗客にも親切丁寧であると駅利用者のみならず沿線でも評判の存在だったそうです。

女性駅長誕生の背景には、当時の神戸鉄道管理局長の「私鉄の小駅は家族単位で管理する」という方針があったというのですが、夫は駅長で妻は出改札係というアイデアが、なぜ全て一人でこなす女性駅長として実現したのかはよく分かりません(ちなみに衣川さんは近所の会社で働く夫がいたそうです)。

近年、JR・私鉄とも女性の採用が進み、各社で次々と「初の女性運転士」「初の女性駅長」が誕生しています。しかし衣川さんの事例はレアケースとしても、女性鉄道員が普通の存在になるまで長い年月がかかったのはなぜなのでしょうか。

日本の鉄道における女性係員の歴史から紐解いていきましょう。

女性鉄道乗務員の誕生

先ほど紹介した『日本の鉄道ことはじめ』によると、1897年に讃岐鉄道(現在のJR四国予讃線・土讃線)が他社に先駆けて女性出札職員(きっぷうりばの係員)の募集を行った記録がありますが、まだ女性の就業にはハードルが高い時代だったため、応募が殆どなく実現に至りませんでした。

讃岐鉄道125周年ヘッドマークを付けた高松行列車 Photo by tango_november (CC BY 3.0)

1902年になって讃岐鉄道は再び女性職員の募集に乗り出します。同年高松市で開催された会合で女性案内係を募集したところ予想外に多数の応募があったということを聞き、今度こそ行けるのではないかと考えたのです。

今度は慎重を期してまず試験的に列車の喫茶室に乗務する給仕係として採用することにしました。女性の社会進出という意味では非常に先進的な取組みではありましたが、その実「採用資格」は時代相応というか、現在では考えられないものでした。

  1. 容貌醜悪ならざる者
  2. 普通教育(小学校卒業)ある者
  3. 身体強健の者
  4. 品行方正の処女たるべきこと
  5. 既往の履歴に毫末も汚点なき者

それでも数十人の応募があり、その中から厳選された”美人”で”処女”の8名が、日本初の車内給仕係として採用されることになりました。

女性駅員の誕生

ちょうど同じころ国有鉄道でも、讃岐鉄道と同じように駅の出札業務(きっぷうりば)に女性を採用しようという計画が持ち上がっていました。このような構想は以前からあったようですが、次のような懸念(偏見)があるということでなかなか実現に至っていませんでした。

  • 夜勤がある多忙な業務のため女性の体力上の懸念
  • 女性が男性と同じようにてきぱきと仕事ができるのかという懸念
  • 男だらけの職場に女性が入ると客や同僚から好奇の目で見られるのではないかという懸念

そこで1903年11月に鉄道作業局は、きっぷうりばが比較的すいている11~12月限定で新橋駅に試験的に女性職員を起用して、結果を見て判断することにしました。国鉄では1900年6月から運輸部の事務職として女性の採用を始めており、既に30余名の女性職員がいたことから、まずは一般公募ではなくこの中から希望者を募ることにしました。

出札業務とは現在のみどりの窓口のようなもの Photo by NipponiaNippon~commonswiki (CC BY 3.0)

ところが鉄道作業局が期待していた20~30歳の女性職員は業務に対する不安や羞恥心から誰も応募せず、手を挙げたのは10代の少女4人だけでした。それでも時代は若者の力によって変わっていくもので、彼女らは成績優秀ですぐに独り立ちして業務をこなせるようになりました。

旅客からの評判も非常に良かったことから、女性出札掛はその後、東京、大阪、神戸、水戸など大きなターミナルに広がっていきます。1914年に開業した東京駅では出札掛の4分の3が女性で占められていたそうで、一部の業務ではありますが徐々に女性は駅業務に欠かせない存在となっていったのです。

女性駅員を積極的に活用した美濃電気軌道

私鉄ではもっと積極的に女性鉄道員を起用した事例があります。岐阜県の美濃電気軌道(後に名古屋鉄道に合併され現在の名古屋本線笠松名鉄岐阜間)では、1918年4月から女性駅員と女性車掌の採用を開始し、同年中に女性駅長まで誕生することになったのです。当時の様子を読売新聞が報じています。

 岐阜県美濃電気軌道株式会社では、先頃郡部の笠松線で女車掌三名を採用し、成績が大層良いといふ所から、更に六名を増加し、市内線にも採用していましたが、今度は尚新たに笠松線全部に婦人を使ふこととなり、さしずめ笠松口の出札掛り沢田藤江を茶所駅長に任命して、日給三十九銭を支給することになりました。

そして今度の成績良好ならば、漸次、同線の各駅長にも婦人を任用する予定なさうです。右に就いて東京駅助役・花村芳蔵氏のお話を伺ひますと――女駅長といふことは日本ではちょっと耳あたらしく感じますが、現に英国あたりではズンズン夫人を採用しているのですから、婦人だからとて駅長に適任ではないとは云はれないでせう。

読売新聞(1918年6月3日)

この女性大量採用の背景には第一次世界大戦による空前の好景気がありました。つまり産業が急激に拡大・発展したことで人材難となり、男性だけでは人員を確保できなくなってしまったので、女性に門戸を開くことになったというわけです。

これは世界的な潮流だったようで、戦前から以下のように指摘されています。

世界大戦と婦人の職業分野

なお此処で一つ見逃し出来ない事は、かの大正三年から七年に亘る世界大戦でした。この世界大戦はいろいろな意味で多くの問題を提供いたしましたが、ここに言おうとすることは、それが夫人の職業分野を拡大することに役立った一事です。すなわち前古未曽有の彼の大戦争を通じて、欧州ではすべての男子は戦場に送られて弾丸の餌食となって終わった後に、夫人は全ての産業部門、全ての職業分野に入り込んで、男子に代わりました。

これによって婦人の地位は大いに開け、西欧に於いては、婦人参政権獲得の大きな動機をさえ作ったものですが、このことは遠く離れた日本にも影響を及ぼし大戦終了後大正九年には、一月に東京市街自動車の婦人車掌に数十名が初めて使用せられ、四月には、東京市、名古屋市に女子視学(※地方教育行政官)の任命があり、七月には宮崎県で、婦人の小学校長が任命され、八月には農商務省で、女子官吏数十名が採用され、九月には内務省社会局に、女子嘱託の任命を見る等の活気を呈しました。そして翌年の二月には、徳島県警察より女巡査採用方針を内務省に照会してきた程でした。年毎に職業の範囲が拡大されるといった現象は、全くこの頃始まったものです。

河崎ナツ著『職業婦人を志す人のために』1932年,現人社

大正時代に入って女性の地位向上が僅かばかりながら進んだのは、職業婦人という認識が生まれ始めたことと無関係ではありません。ただ実態としては、女性の社会進出は不足する男性の代替品、あるいは「品行方正で処女の美人」といったようなマスコット扱いとして進められてきたことも否めません。

(5/19 この項を加筆しました)

あこがれの職業婦人

様々な事情はあれど大正後期から昭和初期にかけて女性の運輸業界進出は拡大し、あこがれの職業婦人像のひとつにもなって行きます。その代表的な事例が「バス・ガール」です。

現在のバスはほとんどが運転士一人のワンマン運転ですが、1960年代までは案内や運賃収受を行う車掌が別に必要だったため、大正末から昭和戦前期にかけて多くの女性車掌が乗務していました。

東京メトロの前身である東京地下鉄道でも、1931年から女性駅員の採用を開始しています。昭和期の女性鉄道員というと、どうしても戦時中のエピソードになりがちなのですが、実はそれ以前から女性の進出は始まっていたのです。しかし、その境遇は決して恵まれたものではありませんでした。

次回は後編として、昭和初期の女性駅員の苦労と「銃後の最前線」に駆り出された戦時中の女性乗務員たちの苦難、そして戦後女性が運輸の現場から遠ざけられることになった事情などをお伝えしたいと思います。

※ボリュームが大きいので中編になりました

2018年5月22日追記

ツイッターできーぼーさんから以下の情報を教えてもらいました。やはり高野鉄道には他にも女性駅長がいたんですね。また鉄道省女性出札掛のその後のエピソードも興味深いですね。能率やら風紀やらと理由を付けていますが、実際のところ戦後不況で人が余っているから女性を切りたかったのでしょう。京都駅の「能率は決して遜色ない」との異論はそれを示しているように思います。

女性鉄道員の歴史は今後も追っていきたいと思います。ありがとうございました!