文字通りの通勤地獄―中央線から放り出され神田川に落ちて死んだ人の話

歴史

連載企画「東京都市交通博物館」にて、戦前の通勤電車の歴史を時代ごとに取り上げているように、100年ほど前から電車通勤を中心としたライフスタイルが誕生しています。一面においては現在と比較しても遜色ないレベルで電車が走っていたことも触れました。

ところが、その歴史は直線的に現在に続いているわけではありません。8月15日も鉄道は動き続けたと連続性ばかりが強調されがちですが、戦時中・終戦直後という不幸な時代においては、想像を絶する地獄のような状況が存在していたのです。

1945年11月29日

26歳の母<0歳児と2歳児連れ>、新宿から目黒までの間に0歳児が圧死、母は過失致死罪。

出典:柳沢健一『思い出の省線電車』

関西でも同様の事故は起きていたようです。

“満員電車少年を殺す”の見出しに始まる記事には、昭和22年2月4日午前8時ころ東和歌山発天王寺行き省線阪和線内で13~4歳の少年が、超満員のため押しつぶされて絶命した事実の指摘がある。

出典:中川浩一「史実でつづる通勤・通学輸送」『鉄道ピクトリアル』451号

いわゆる買い出し列車の大混雑は都市部の電車も同様でした。それでも人々は生きるために食べるために鉄道に乗ったのです。

『思い出の省線電車』によると、鉄道当局は1945年10月の満員電車に関係する死者は31人と発表しています。つまり1日1人死亡するレベルで発生していたことになります。

昭和21(1946)年6月4日の朝、「通勤地獄」の典型であった中央線の上り急行電車から、乗客数名が転落して死亡もしくは行方不明になる悲惨な事故が発生した。場所は、東中野―大久保間、しかも現場は神田上水を橋梁で乗り越し、高い築堤に移行する地点であった。(中略)

ドアが外れたのは、満員の電車による強圧が木製の扉を破壊したのに起因する。転落して死亡した乗客の数は、神田川と名が変わった下流部で、水死体が発見された結果の逆算というのも、悲惨の限りである。

出典:中川浩一「史実でつづる通勤・通学輸送」『鉄道ピクトリアル』451号

戦時中から整備が追い付かないまま車両を酷使していたこともあり、扉が外れていたり開口部に落下防止のバーだけ付けただけの車両が多く走っており、また仮に扉が付いていても車内からの圧力で破損することは珍しくありませんでした。

ドアの無い満員電車『思い出の省線電車』より(撮影:浦原利穂)

1948年に入ると「復興整備電車」と呼ばれる戦前レベルに整備された電車が徐々に走りはじめますが、状況はすぐには改善しませんでした。

 

(1948年)6月中の事故多発で当局発表。6月4日、御茶ノ水駅で満員4両目扉が外れ、中大予科1年の小田さんほか数名16メートル下の川中へ転落。6月15日、横浜市生麦で桜木町行満員電車の扉が外れ転落し2人死亡。6月18日、常磐線三河島駅付近のモーター発火で窓から飛び降りた3名が重体。他に都電本所緑町3丁目で後部扉が開き女子2名転落うち1名死亡と扉事故が多かった

出典:柳沢健一『思い出の省線電車』

こうした状況が落ち着きを見せるまでにはもう1~2年の時間を要しました。

積み上げたものを壊すのは一瞬です。二度とこのような時代を迎えることが無いようにしなければなりません。