【ニッポン鉄道第1号】自動券売機第1号は定説より前に存在した!?

ニッポン鉄道「第1号」

相沢正夫の『ニッポン第1号記録100年史』から「ニッポン鉄道第1号」を紹介するシリーズの第8回は、明治44(1911)に登場していたらしい「駅の自動券売機第1号」である。

シリーズ概要と相沢正夫氏についてはこちらの記事を参照(記事一覧はカテゴリーから)。

【ニッポン鉄道第1号】線路の置き石第1号と一番ヤバいの

 

1911(明治44)年1月「自動販売機」第1号

精巧な梅田駅の自動式入場券販売箱
兵士見送りの人の入場券をさばく

明治20年5月27日の名古屋の新聞「金城だより」に“自動販売箱”と題し、ロンドンの煙草販売機について次のように紹介されている。

「その自動箱の掲揚いかにといえば、通常の書状差入れ箱を見るがごときなり。人あり、もし巻煙草を買わんと欲するものは、この箱の頂きにある孔の中に、その煙草の価だけの銭を入れやるときは、機械直ちに運動を始めて、その要するところの煙草、直ちに箱の下辺の口に現れ出ずるの趣向なり。いまあいずことなく公の場所にしてこの箱の設けあらざるはなく、すでにロンドン市中にその数七千を設置するにおよぶ。さて、最初の間は、市中の博徒ら、この箱をあざむきくれんとて、銭の代わりに錆びたる鉄釘のごときものを入れて煙草に代えんとし、あるは銅銭に穴をうがち糸につけて投入し、機械運転の半ばにしてこれを引上ぐるなどの種々のいたずらをなし、設置者は大いに困却せしが、その後、箱に改良を加え、いまは貨幣の他は決して投入するあたわざるようになしたりと。ただし、いまの分にては巻煙草を売る装置のみなれど、追っては諸種の売物をもなしうるに至るべし」。

その自動売物箱の、わが国における第1号は、鉄道の入場券発売機であった。国鉄編の『鉄道史事典』によると、この自動券売機の登場は、大正15年4月20日で、ドイツ製入場券発売機を東京駅に4台、上野駅に2台そなえ、さらに国産の券売機が昭和2年12月、東京、上野、新橋、水戸、宇都宮の5駅にお目見得したという。

しかし、明治44年1月7日の大阪毎日新聞には、大阪の梅田駅が自動式入場券発売函というものを作って、一、二等待合室の入口にすえた、という記事が出ている。これは梅田駅が東京の新橋駅に次いで乗降客が多く、入場者は平日でも平均5、600人を数え、特に入営兵士を見送るシーズンでは、一日数千人にも達するためであった。

鉄道歴史事典にある大正15年の機械は、「貨幣を投入しないと作動せず、貨幣を投入してベルが鳴るまでボタンを押し、それから手を離すと切符が出るが、この機会には銭別機というものがついていて、穴のない貨幣を入れても切符は出てこないし、切符の残り枚数が少なくなると、電鉄が鳴る仕掛けだ」と、説明されている。

いっぽう、明治44年の機械は、大阪毎日新聞の記事によると、「青ペンキ塗りで、一見郵便ポストのような体裁。その中央斜めに切穴があり、この穴に二銭銅貨を投げ込み、穴の下のボタンを右に動かすと、下の受け出し口へ、上り下り両用の入場券がヒョッコリと自然に出てくる仕組みで、もし二銭銅貨以外の貨幣を入れると、お金がそのまま、下の受出し口にころげ出して無効。また、函の正面にガラスのメートル器があり、これは切符が1000枚収納できるこの函の、残り枚数を示すもので、メートル器の300のところまで切符があれば、切符がまだ300枚あるということだ」となっている。

鉄道歴史事典では大阪のこの機械について触れていないが、二つの説明をくらべると、大正15年の東京駅に設置されていた機械より、明治44年の梅田駅のもののほうが、むしろ精巧であったように思われる。

相沢正夫『ニッポン第1号記録100年史』講談社,1981年

記録に残る最古の自動販売機は紀元前215年頃、古代エジプトの神殿に置かれていた、硬貨の重みで「聖水」を一定量販売する装置と言われている。また現存する世界最古の自動販売機は、1615年にイギリスで作られたタバコ自販機だという。記事冒頭に引用されているように、ロンドンでは19世紀半ばから自動販売機が広く普及していたそうだ。

では明治末の日本は実用的な自動販売機を作ることができたのだろうか。この機械について、はっきりしたことは分からないが、明治時代に考案された自動販売機を傍証にすることはできるかもしれない。

俵谷高七氏(郵政博物館webサイトより)

日本最古の自動販売機は、発明家の俵谷高七(たわらや たかしち)が1888(明治21)年に考案し、1890(明治23)年の第3回内国勧業博覧会に出展した「煙草販売便器」といわれている。

工作機械を製造するヤマザキマザックのwebサイトによると、俵谷は1854(安政元)年、現在の島根県浜田市で生まれた。幼少時から手先が器用だった高七は、精巧な玩具を作っては周囲を驚かせていた。当初は、その才能を生かすため、たんすなどの箱物を作る指物師の仕事をしていたが、評判を聞きつけた地元郵便局の依頼により、室内用の運搬機械や貨幣を包む器具類の発明・開発に携わることになる。ちなみに郵便ポストを「赤く」したのは俵谷のアイデアと言われている。

そうした作業の簡易化・効率化を目指す過程で、自動販売機の着想を得た高七は、郵便局から依頼された器具類の発明・開発の傍ら、自動販売機の開発に着手した。こうして生まれたのが前述の「煙草販売便器」であり、1904(明治37)年に考案されたのが現存する日本最古の自販機である「自働郵便切手葉書売下機」だった。

郵政博物館に保存されている「自動郵便切手葉書売下機」

この自動販売機は郵便はがきと切手を販売することができる。左側は1銭5厘のはがきの発売口、右側は3銭切手の発売口だ。動力は使われておらず、投入されたコインの重みだけで作動するという、江戸時代からのからくりと同じような技術で作られている。

はがきの販売口は1銭5厘入れるとはがき1枚、3銭入れるとはがき2枚出てくる仕組みで、異なる硬貨を入れても弾かれて戻ってくる。さらに在庫が無くなるとその分の硬貨は返却されて「うりきれ」の表示に切り替わるという高性能なものだったが、動作の確実性に難があり、量産・実用化には至らなかった。

電気式の自動販売機が主流になるまでは、手動のレバーを動力として使う自動販売機が広く使われた(たとえば、ガシャポンも手動レバー式の自動販売機の一種と言えるだろう)。俵谷のイメージした、硬貨を入れるだけで自動的に商品が出てくる自動販売機は少し時代が早すぎたようだ。

手動レバー式の自動販売機は今でも駅で見かけることがある。トイレの入り口に鎮座して、急を要する利用者に足元を見た価格でポケットティッシュを売りつけてくる、あの極悪非道の機械である。