【ニッポン鉄道第1号】新婚旅行第1号、熱海旅行は鉄道とともに

フリー写真素材「写真AC」より
ニッポン鉄道「第1号」

相沢正夫の『ニッポン第1号記録100年史』から「ニッポン鉄道第1号」を紹介するシリーズの第3回は、明治16(1883)年に井上薫の息子勝之助夫妻が行った「新婚旅行第1号」である。今回は「ちょっと異議あり」なのだが、とりあえず読み進めてほしい。

シリーズ概要と相沢正夫氏についてはこちらの記事を参照(記事一覧はカテゴリーから)。

【ニッポン鉄道第1号】線路の置き石第1号と一番ヤバいの

 

1883(明治16)年1月16日「新婚旅行」第1号

元勲井上馨の息子のモダン趣味
熱海をメッカにした功労者

明治16年1月19日の東京日日新聞に、「井上(馨)参議の令息勝之助君夫妻は、去る十六日熱海温泉に赴かれたり。新婚まもなき旅行は琴瑟和調の本にて、西洋にはつねにさするものと聞けり」とある。それより前、明治11年6月18日の読売新聞には、

〽指切り髪切りゃむかしのことよ いまは指輪の取りかわし

という都々逸が載っていて、すでにそのころエンゲージ・リングの風習が行われていたことをしめしているが、いわゆる新婚旅行の新聞に登場したのは、この井上夫妻のものが第一号である。

もっともハネムーンや新婚旅行という言葉は、まだ使われていなかった。こうした習慣についてはっきりと紹介した最初のものは、明治22年1月に刊行された井上円了の『欧米各国政教日記』で、この中に、「イギリスでは結婚式のあと、二人は旅装をつけて旅行に出る。この旅行のことをホネムーン(甘月)という」としてあり、このホネムーンを訳した新婚旅行という言葉の初登場は、同じ22年5月3日の東京日日新聞における次の記事であった。

「末松謙澄氏が近県に旅行せしにつき、選挙の準備として郷里へ微行せしにあらずやなど疑うものもあれど、実にいま一層重大な事件、しかも一層うらやむべき一大事――新婚旅行にてありしなり。実に氏の一身にとりて、明治二十二年の四月こそ、終生再びかえがたきホニーモーンなれ」。

さらに翌23年7月13日の読売新聞には、「ホニムーンらしき二人や汽車の旅」とあり、新婚旅行が川柳にまで詠まれるようになるが、明治28年刊の大橋乙羽著『娘姿十五区』に、「いずれ位などある家の令嬢なりしや、新婚旅行(フリガナ「ハネムウン」)の道中に若いものを羨しめたるは、つい近ごろか」とあって、このころ“ホニーモーン”が“ハネムウン”に変わってくる。

ちなみに、井上勝之助は馨の甥で叔父の養嗣子になった人で、ドイツ大使をやったのち宮内省の式部長官などをつとめた。また末松謙澄は山口県人で、東日の記者から代議士となり、逓信大臣、子爵と進んだ明治書生の出世ナンバーワンだが、伊藤博文の長女生子に惚れられ、死ぬの生きるのとひと騒ぎがあったあげく結婚した。

井上夫妻が新婚旅行に出かけたころの熱海は、まだ静岡県田方郡熱海村で、東京からは国府津まで汽車、あと小田原までが馬車鉄道、それから海岸沿いに新道七里(約27.48キロ)を人力車に乗った。西からは沼津までが汽車で、その先もこれも七里の道のりだが、小田原からも沼津からも人力車で5時間かかった。しかし、東京からの温泉保養地として各界名士たちにより賑わい、特に明治20年以降は別荘ブームも手伝って年とともにひらけて行き、尾崎紅葉の「金色夜叉」が読売新聞紙上で始まった明治30年には、熱海への新婚旅行も政治家、豪商の子女だけのものではなくなっていた。

一世を風靡した新婚列車

昭和3年2月、小田原―熱海間の鉄道電化が実現すると、東京で結婚式をあげたカップルがそのまま直行して、熱海は新婚旅行のメッカと言われるようになり、新婚列車まで出現した。別に鉄道がそういう列車を編成したわけではないが、たまたま時間的によいので新婚組が利用し、東京駅の四番ホームでは華やかな見送り風景が見られたので、いつの間にかこの列車に結婚列車、新婚列車の名がついたのである。

戦後には挙式の時刻がグンと早まり、24年5月7日に新設された5番ホーム午後3時発熱海行の準急が、新婚列車と呼ばれた時期がある。

相沢正夫『ニッポン第1号記録100年史』講談社,1981年

熱海は古くから療養に効果のある温泉の産地として知られており、江戸幕府を開府した徳川家康が湯治に訪れ、江戸城に熱海の温泉を運ばせた記録が残っている。熱海は将軍家の直轄領として位置づけられ、また参勤交代に向かう諸大名が多く立ち寄ったことで、全国的に名前が知られるようになったという(参考:熱海市webサイト)。

江戸時代の街道「東海道」は、相模湾に沿って藤沢から大磯、小田原へ至り、箱根山を越えて三島、沼津に抜けるルートであったが、鉄道では箱根の山を越えることはできないので、鉄道の「東海道本線」は国府津から御殿場に回って沼津に抜ける現在のJR御殿場線ルートで建設された。1887(明治23)年に横浜(現桜木町)~国府津間、1889(明治25)年に国府津~御殿場~浜松間が開業している。

東海道本線の旧ルート(御殿場線)と現ルート(点線)(地理院地図を加工)

古くから東海道の宿場町として栄えた小田原は、メインルートから外れたことに危機感を募らせた。東海道本線が国府津まで開業した1887(明治20)年、小田原の有力者は国府津を起点とし小田原を経由して箱根町湯本に至る馬車鉄道を出願し、翌1888(明治21)年に「小田原馬車鉄道」として開業した。これが現在の箱根登山鉄道のルーツである。一方、小田原から熱海まで線路が繋がったのは1896(明治29)年のことであった。

人車鉄道、小田原~熱海を走る

かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。

1895(明治28)年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌1896(明治29)年3月に熱海~小田原間が開通しました。

当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、駕籠か人力車を利用していました。そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。

豆相人車鉄道と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。

豆相人車鉄道は、1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していました。6両編成(ママ)で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したというのどかな風景も見られました。雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。

しかし、1923(大正12)年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌13年に鉄道事業の幕を閉じました。

出典:小田原市webサイト

人力の鉄道が珍しいのは確かであるが、このブログでは既に同時代の事例をいくつか紹介してきたところである。豆相人車鉄道については、当初普通鉄道として建設を目論んだものの、資金が不足したため、やむを得ず人力鉄道として開業することになったという。

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相沢の記事には「井上夫妻が新婚旅行に出かけたころの熱海は、まだ静岡県田方郡熱海村で、東京からは国府津まで汽車、あと小田原までが馬車鉄道、それから海岸沿いに新道七里(約27.48キロ)を人力車に乗った。」とあるが、これまで見てきたように1883(明治16)年の時点では、官営鉄道国府津まで到達しておらず、馬車鉄道も開業前だ。

むしろその次の「特に明治20年以降は別荘ブームも手伝って年とともにひらけて行き、尾崎紅葉の「金色夜叉」が読売新聞紙上で始まった明治30年には、熱海への新婚旅行も政治家、豪商の子女だけのものではなくなっていた。」というのが、汽車と馬車鉄道、人車鉄道の整備で熱海が身近になった時代の話である。

1906(明治40)年、豆相人車鉄道は動力を蒸気機関車に変更して熱海鉄道に改称した(大正時代の熱海鉄道蒸気機関車)

さて話は1889(明治22)年に開通した御殿場経由の「東海道本線」に戻る。御殿場まで迂回して、どうにか山越えを果たした東海道本線であったが、25パーミル(1000m進むごとに25mの高低差)の急勾配が連続する難区間に変わりはなかった。この区間を走りぬくためには、下り列車は国府津駅、上り列車は沼津駅で補助機関車を連結する必要があり、これは東海道本線のボトルネックとして関係者を大いに悩ませることになる。

結局、鉄道省は1917(大正6)年に東海道本線の輸送力を抜本的に解決するために熱海~三島間を結ぶ約7.8kmの「丹那トンネル」の建設に着手。1920(大正9)年に「熱海線」として国府津~小田原間が開業し、1922(大正10)年に真鶴、1924年に湯河原駅まで延伸、1925年(大正14年)に熱海駅まで開業した。

1928(昭和3)年に、小田原~熱海間が電化され、東京から熱海まで電気機関車けん引の客車列車による直通運転が開始される。ちなみに新宿~小田原間に小田急線が開業したのが1927(昭和2)年のこと、小田原行きの週末温泉特急が走り始めるのが1935(昭和10)年のことである。

丹那トンネルは異常出水が相次ぐ難工事を乗り越えて、1934年(昭和9年)に開業した。当時日本で2番目に長い鉄道トンネルであり、蒸気機関車の運行は排煙に問題があることから、当初から電化区間として開通している。