【ニッポン鉄道第1号】鉄道ストライキ第1号、その労働運動史上の位置づけ

スト権スト時の道路と車庫(国鉄労働組合webサイトより)
ニッポン鉄道「第1号」

相沢正夫の『ニッポン第1号記録100年史』から「ニッポン鉄道第1号」を紹介するシリーズの第6回は、明治31(1898)年2月25日から26日夜にかけて実施された「鉄道スト第1号」である。

シリーズ概要と相沢正夫氏についてはこちらの記事を参照(記事一覧はカテゴリーから)。

【ニッポン鉄道第1号】線路の置き石第1号と一番ヤバいの

 

1898(明治31)年2月25日「鉄道スト」第1号

職名改正を要求、上野―青森間不通
火夫を機関助手と変えてケリ

日本鉄道会社の宇都宮以北青森にいたる各駅の機関手たちが、明治31年2月25日の始発からストライキに入り、翌26日には、宇都宮―上野間も同調して全線不通となった。東北線がまだ官営になる前の話だが、これがストライキによる鉄道不通の第一号であった。

組織労働者のストライキとしては、明治19年6月14日に始まる甲府の雨宮生糸紡績工場女子工員争議が第一号。過酷な労働条件に反発してのものだが、27年1月の大阪天満紡績における近代的大工場初のストあたりから労働者の権利意識がしだいに高まってきて、30年12月には本格的な労働運動雑誌『労働世界』が創刊された。

こういう社会情勢を背景に、日本鉄道では福島機関部が中心となり、職名改正と待遇改善を要求して待遇期成大同盟会を結成したため、会社側は2月21日にその指導者ら22人を解雇し、これに抗議してストが決行された。

鉄道の機関手は明治5年の開業からずっと外国人に任せられており、日本人では明治16年になって4月14日、ようやく3人が新橋―横浜間で登用されたが、以来、機関方、火夫の名で呼ばれ、技術者としての処遇をえていなかったことが不満の大きな原因であった。

争議はその後、警察などの説得もあって、26日夜、ひとまず運転を再開し、3月8日にはストライキの責任者2人を解雇する代わりに、さきの12名の退職が取り消された。さらに3月21日、機関方を機関手、機関方心得を機関手心得、火夫を機関助手という職名に改めることとなって、労働者側も4月5日には大同盟を解散し、新しく矯正会という組織に変えて一件落着した。

しかし、職名が変わっただけで、機関手の待遇が職工として扱われたことに変わりはなかった。

相沢正夫『ニッポン第1号記録100年史』講談社,1981年

「火夫を機関助手と変えてケリ」と題された記事を読む限りでは、ストライキは職名改称によって朝三暮四のごとく解決されたように見えるが、実際はそう単純なものではなかったようだ。独立行政法人労働政策研究・研修機構が2006年に発行した『労働政策研究報告書』に収録されている「労働関係の変化と法システムのあり方」によると、労働側と経営側の関係はこのストライキを前後して「現代日本的労使関係の原点」を形成したという。

機関手の場合、まずクリーナー(掃除夫)として入職して6 ヶ月から数年の経験を積んだ上で火夫(運転助手)になる。その後、運転手からOJTによる指導を受けながら最低2 年間以上、運転技能を修得し、一定の熟練が形成されると「年功」、技能、勤惰などが考慮され運転手試補に昇格する。そしてまた数ヶ月の見習いを経てようやく運転手になれた。この間、運転手と火夫・掃除夫の間には技能伝授を媒介とした親分・子分的な関係が形成されていたという。さらにこうした徒弟制的な熟練形成のあり方を前提として、運転職種の労働者は強固な同職的結合を有していた。

彼らはストライキで会社側に4項目を要求し、経営側がこれを完全に実施したことで争議は収束した。

  1. 機関方の呼称を「機関手」に、火夫を「機関助手」に改めること
  2. 機関手心得以上の身分を「三等役員」(技手や書記、駅長が含まれる)に昇格すること
  3. 機関手、機関助手、クリーナーの賃金を 5~15銭増給すること
  4. 被解雇者の再雇用

同職的結合に基づく強固な団結によって争議に勝利した運転職種の労働者たちは、1898年4月、機関車乗務員全員を「入会の義務ある者」とするトレード・ユニオンである矯正会を結成する。それは会社側の巻き返しにそなえて同職的結束を固め、さらに自己統治の実績をあげることで運転手の地位と労働条件の向上を目指すために組織された企業内職能組合であった。

「労働関係の変化と法システムのあり方」『労働政策研究報告書』(55),2006,独立行政法人 労働政策研究・研修機構
第1章 総論,第3節 労働史からの考察-日本労働史における「集団」への注目(執筆担当:中村尚史)から要約・引用

要求項目に「昇格」と「昇給」が含まれているように、機関手の待遇は職工から技手に改善されたのである。職工と技手、技師の格差は非常に大きかったが、決して固定的なものではなかったようだ。

従来の研究史では主に氏原正治郎の考察に立脚して,企業内に学卒者=技師,中等教育修了者=技手,初等教育修了者=職工と学歴別に階層が形成され,各集団は越えられない壁で隔てられて上位階層への上昇はなかったと理解されてきた。こうしたイメージはホワイトカラー企業にも援用され,やがて「戦前期企業は学歴に基づく強固な身分制社会」という認識が定着した。

しかし近年では,それを覆す研究が現れている。電機産業を分析した市原博は,学卒技師は製造工程を技手や職工に任せきりで統制できておらず,第一次大戦後も熟練工への依存は大きく,また職工から技手へ,あるいは技手から技師へと身分上昇した事例を報告する。鉄道省を考察した広田照幸は,初等教育修了者も高年齢では相当数が学卒者と同様に判任官に昇進したことを明らかにしている。

藤村聡「書評 技手の時代(小路行彦著)」『企業家研究』2015年12月号

日本鉄道の経営側が着目したのは、この点にあった。運転手の「待遇改善」は段階的に実施され、それと同時に「組合」の解体が進められた。

1900年前後の日本鉄道には 3 つの職能別組合が存在し、職能別の労働運動が展開していた。なかでも運転手は、機関方争議の後も矯正会を通じて強固な団結を誇り、経営側を強く牽制していた。これに対して経営側は、①身分上昇、②労使懇談機関の設置、③救済制度の充実といった融和策と、a.広域人事異動、b.運転手の管理職への登用、c.治安警察法を背景とする国家権力の介入といった分断・抑圧策をもちいて矯正会の切り崩しにとりかかる。

このうち本節の問題意識との関係で重要な点は、経営側から提示された 3 つの融和策である。まず①の身分上昇については、機関方争議の際に運転手側から提示されていた呼称問題(人格承認要求)と「三等役員」(=技手)への昇格要求を全面的に受け入れ、むしろそれを梃子として運転職種の同職的結合の解体をはかった。換言すれば、経営側は「身分の取引」によって、運転手を経営体のなかに取り込むことに成功したのである。

「身分の取引」が成立したことによって、労働側は企業の経営発展に貢献する能力を身につけ、それをアピールする必要が生じた。矯正会が労働者自身の「弊風矯正」を活動目的の一つに掲げ、かつ②の労使懇談機関として設置された機関手会議で、運転手代表が業務改良に関して積極的に発言した理由も、正にこの点に求められる。一方、経営側は運転手を経営体の内部に取り込む以上、従業員としての彼らの忠誠心を獲得する必要があった。③の救済制度充実はそのための一つの手段であったと言えよう。さらに 1903 年以降は、運転職種にも昇進試験制度が導入され、また運転手(技手クラス)の俸給体系が日給制から月給制に移行し、「ブルーカラーのホワイトカラー化」が進行することになった。

こうした一連の労務政策のハイライトとなったのは、1901年12月における矯正会の解散とその研究会への改組である。1901年11月、東北大演習の際の天皇乗用列車事故を理由に、経営側は警察の圧力をかりて矯正会に解散を迫った。矯正会は1901 年に入って経営側との対決姿勢を強め、社会主義支持決議を行うなど外見上は戦闘化していたが、内実は「身分の取引」による同職的結合の弛緩によって存立の基盤を掘り崩されていた。そのため同年12月9日、矯正会は警察に対して抗議を申し入れたほかは目立った抵抗もせず、あっさりと解散してしまった。

一方、矯正会と入れ替わりで設立され、機関車乗務員を組織した研究会は、汽車課長・同主事が会長・幹事長に就任し、会長が主要な人事権を握るという経営側のイニシアティブが貫徹した組織であった。ここで注目すべき点は、その中心メンバーである幹事の半数近くが、矯正会で指導的立場にいた人々であった点である。同職的結合の紐帯から放れ、「経営体のなかに入る道」を選択した運転職種の労働者たちは、自らの労働組合ではなく、経営側が組織した集団のなかに居場所を見つけていったのである。

(略)

明治期において、労働者は同職的結合を有する「集団」を形成しており、使用者はその「集団」を通して労働力を調達する必要があった。産業革命(1886年~1900年頃)の過程で登場してきた近代企業は、この同職的結合を分断することによって「集団」から個としての労働者を析出し、彼らを経営家族主義のようなイデオロギー装置を用いて組織化していく。間接管理から直接管理へという労務管理体制の変化は、まさにそのことを象徴的に示していた。

第一次世界大戦期になると、企業側の働きかけによって登場した個々の労働者が、経営家族主義に対抗して自らの人格承認を求め始めた。その受け皿になったのが友愛会をはじめとする横断的産業別労働組合である。これに対して企業側は、横断的労働組合の侵入を抑圧する代わりに、労使懇談制度である工場委員会を立ち上げ、労働者の懐柔と組織化を行った。

一方、労働者の基幹層は身分を媒介として労働給付と反対給付を取引するという「身分の取引」に応じることで、それに同意を与え、経営体のなかに入る道を選択した。このように労使の同意のもとで形成された工場委員会体制は、企業別の労働者集団の形成という現代日本的労使関係の原点になった。

「労働関係の変化と法システムのあり方」『労働政策研究報告書』(55),2006,独立行政法人 労働政策研究・研修機構
第1章 総論,第3節 労働史からの考察-日本労働史における「集団」への注目(執筆担当:中村尚史)から要約・引用

鉄道という巨大組織の中の役割は多種多様である。職能別組合を通じた複雑な関係性は、最終的に国鉄解体の要因とともに原動力のひとつとなった。

1950年(昭和25年)に国鉄労働組合(国労)の機関士待遇をめぐる運動方針への反発から、国労機関車協議会を母体とした日本国有鉄道機関車労働組合(機労)が結成された。この背景には、蒸気機関車の運転には、熟練を要する技術や釜炊きと呼ばれる機関車を操作できる状態にしておくまでの準備に手間がかかることから、「一般の駅員より機関士や運転士の方が格上」という現場での運転士達の自負心・エリート意識があったとされる。さらに、機労結成において国鉄本社運転局が積極的に動いたとされている。

事実、機労の強かった現業機関は運転局の影響力が強かった北海道等の地方の管理局に多かった。しかし、運転局との密接な関係は、逆に職員局との対立を呼んだため、労使関係全般が蜜月とは言えなかった。この運転局との特別な関係は国鉄終焉時まで続いただけでなく、運転局出身者が経営に強く関与したJR東日本の労使関係にも影響を与えた。

wikipedia「国鉄動力車労働組合」

JR東日本は今年3月、今後「運転士」「車掌」の職名を「乗務係」に変更する方針を示した。この背景にはJR東日本における経営と組合の力関係の変化がある。JR東労組は2018年春闘で会社側にストライキ実施の可能性を通告して以降、組合員の脱退者が相次ぎ、2018年2月に約4万7千人いた組合員は同年末時点で約1万2千人まで激減し、どの労組にも加入していない社員が7割近くに達する事態となった。

たかが職名、されど職名。21世紀のストライキ騒動は「運転士を乗務係と変えてケリ」になりそうだ。

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