【ニッポン鉄道第1号】鉄道普及がもたらした週末レジャー旅行第1号

フリー写真素材「写真AC」より
ニッポン鉄道「第1号」

相沢正夫の『ニッポン第1号記録100年史』から「ニッポン鉄道第1号」を紹介するシリーズの第5回は、明治21(1888)年頃に初めて新聞に登場する「週末レジャー旅行」だ。

シリーズ概要と相沢正夫氏についてはこちらの記事を参照(記事一覧はカテゴリーから)。

【ニッポン鉄道第1号】線路の置き石第1号と一番ヤバいの

 

1888(明治21)年「週末レジャー旅行」第1号

鉄道普及がもたらした新しい娯楽
鎌倉、江ノ島、箱根七湯へ

明治21年8月12日の東京日日新聞に、「東京中でも納涼場所のなきにあらねど、長逗留も馬鹿々々しく、また一日ぐらいの涼みでは帰りが早く、かえって苦しみに行くようなもの。そのくらいなら家に寝ていたがはるかにましなり、命に別条なし、懐の痛みもなしと至極にもっともな理屈をつけて旅行見合わせの人も多かりしが、二、三日このかた残暑のきびしさと、磐梯事件(その年7月15日磐梯山爆発、死者461人)もうわさとともに諸方の山鳴り沙汰も鳴り静まった様子なるに、昨今いいたり箱根、伊香保、黒磯などへ、そろそろ出かけるが多しという」

とあり、さらに5日後の17日、同じ紙上に次のような記事が見える。

「東海道鉄道の開けし以来、京浜の地より近くは鎌倉、江ノ島、もしくは箱根七湯にと遊浴するもの日を追って盛んになり行くが、鎌倉、江ノ島の遊びし客は、さる11日の土曜日730人、12日の日曜日830人なりしという」

これが、週末旅行の新聞に紹介された第一号である。

土曜の半休、日曜の全休制が官庁で始まったのは明治9年4月からだが、交通機関の発達、世情の安定にともない明治十年代に入ると、特に外人による近県への小旅行が盛んとなり、これをまねて日本人の間にも、それまで習慣にはなかった家族旅行が登場し、この年の夏あたりから避暑を兼ねたレクリエーションも目立つようになった。

もちろんこうした生活の出来たのは、一部の上流家庭に限られたが、しかし明治17年5月には滝野川の瀧見のため日本鉄道で上野―王子間に臨時列車を出したり、明治21年8月21日の川崎大師の縁日には官鉄も初の臨時列車を組んだりして庶民の楽しみもしだいにふえていった。

相沢正夫『ニッポン第1号記録100年史』講談社,1981年

新婚旅行編」でも触れたように、東海道本線ルートから外れたことに危機感を募らせた小田原の有力者たちは、国府津を起点とし箱根町湯本に至る馬車鉄道を出願し、1888(明治21)年10月1日に「小田原馬車鉄道」として開業した。これが現在の箱根登山鉄道のルーツである。

ただし今回の記事は1888(明治21)年8月12日のもの。まだ小田原馬車鉄道が開業する2か月前のこと。横須賀線(大船~横須賀間)の開業も翌1889(明治22)年6月のことで、当時の路線図は次の通りだ(点線の部分は未開業)。藤沢駅からまっすぐ5kmほど進んだところにある江ノ島はともかく、他の地域は「最寄駅」としては遠いイメージがあるかもしれない。

1888年8月時点の路線図(地理院地図を加工して作成)

たとえば箱根については、小田原馬車鉄道が開業する以前から人力車や乗合馬車が走っていた。鉄道が開通したから行楽客が盛んになったわけではなく、行楽客が盛んだったことから交通機関が整備されたという側面もあったのだ。江ノ島、鎌倉についても、鉄道が開業するまでは藤沢駅から人力車や馬車が旅客を運んでいたのだろう。

同年12月23日の読売新聞は「来年1月1日は毎年の通り参詣人多く従って雑踏を極むならんと察し、爾来1月1日には臨時汽車を発せんと目下協議中の由」と伝えている。報じられた通り1889年の元旦に初詣客向けの臨時列車が初めて設定され、以降毎年の恒例になったという。こうした参拝客を目当てに、1899年に開業した「大師電気鉄道」は京急電鉄のルーツである。

20~30年前なら1日中または何日もかけて街道を歩かなければたどり着けなかった場所が日帰り圏になるというインパクトは大きなものだったはずだ。こうして鉄道は開業から15年ほどで人々の日常も変え始めたのである。