【ニッポン鉄道第1号】主犯は駅長? 停車駅のウッカリ通過第1号

停車駅誤通過防止装置(https://www.youtube.com/watch?v=tlR1i19iQVU より)
ニッポン鉄道「第1号」

相沢正夫の『ニッポン第1号記録100年史』から「ニッポン鉄道第1号」を紹介するシリーズの第7回は、明治43(1910)年9月8日に起こった、「停車駅のウッカリ通過第1号」である。

シリーズ概要と相沢正夫氏についてはこちらの記事を参照(記事一覧はカテゴリーから)。

【ニッポン鉄道第1号】線路の置き石第1号と一番ヤバいの

 

1910(明治43)年9月8日「停車駅のウッカリ通過」第1号

部下も部下だと駅長しきりにボヤく
客は自分の過ちとバツ悪げ

止まるべき駅を忘れて、電車が通りこしたりすると、近ごろはよほどタルんでいて、戦前ではまず考えられなかった事故のようにいう人がいる。しかし人間のやることなんて、いつの時代もそう変わりはない。明治43年9月8日、午前7時35分横須賀発の新橋行き普通列車が横浜、神奈川、東神奈川と停車し、さて次の大森にとまるはずを、そのまま通過して品川へ向かってしまった。汽車の駅通り越しミス第一号である。

この汽車は、ダイアグラム通りなら大森駅に9時11分着、1分停車で9時12分発だったが、4分ほど遅れていた。そこで、大森駅の柏木卯之助駅長が次にくる大森駅9時25分通過の、神戸発上り急行列車とカン違いして、ホームの信号手に通過の合図を出すように指示してしまったための事故である。そのころの鉄道はまだ単線が多かったが、さすがに東海道は複線だったため、それ以上の大事にはならなかったのが、せめてもの幸いであった。

管轄の中部鉄道の管理局(のちの東鉄)の取調べに対して、駅長は「たしかに私の思い違いだが、信号手や機関士、乗務車掌も一言くらい問い返してくれてもよかったのに」とボヤき、いっぽう、機関士と車掌は「不思議には思ったが、こちらはあくまで信号を順守しただけ」と、憮然。結局、信号手を除く三人が始末書をとられて幕となった。

当時の新聞は「鉄道界空前の珍事」「駅長の大失態」などの見出しで、ことのしだいを詳しく伝えているが、この事故のため、大森下車の客数人と、ひと列車待つ身となった大森駅の乗客十余人は、それまで聞いたこともないできごとだけに、てっきり自分たちが列車を間違えたものと思い、最後までバツの悪そうな顔をしていたという。

相沢正夫『ニッポン第1号記録100年史』講談社,1981年

駅長が勘違いした「神戸発上り急行列車」は、前日夜に神戸を出発して朝、新橋に到着する夜行急行の「4列車」だろう。はたしてこれが本当に「誤通過第1号」だったのか定かではないが、こうした鉄道の取り扱いミスが「空前の珍事」として新聞に取り上げられるようになったのは、鉄道利用の大衆化が進んでいたことを意味している。

前年の1月には、横須賀線鎌倉駅の助役が通票閉塞器(衝突を防ぐための安全装置)を不適切に操作した結果、単線区間で列車が正面衝突する事故が発生(死者なし負傷者21名)している。同年4月には東海道線蒲田~川崎間で脱線した貨物列車と急行列車が衝突(死者2名負傷者6名)、さらに8月には東北線上野駅で信号の見間違いによる衝突事故(死者なし負傷者36名)が発生するなど、鉄道の安全に対する関心が高まっていたという側面もあるだろう。

この頃に中央線で走っていた電車の模型

1910年といえば、中央線・山手線では既に電車の運行が始まっており、4年後の1914年には東海道線にも電車(現在の京浜東北線)が走り始めるという、変革期の真っただ中であった。利用者の急激な増加に対応しようにも、旧態依然としたシステムが安全性向上や輸送力増強の妨げになるなど、様々な矛盾が表面化した時代でもあった。

この後、大正から昭和戦前期にかけて、人間の判断力だけに頼らない機械的なバックアップ装置や、作業のシステム化が進められ、輸送力と安全性の向上が図られる。しかし、このトラブルの本当の教訓は、駅長の判断に「おかしい」と思いながらも従ってしまったところにありそうだ。

航空の分野では、操縦士と副操縦士の上下関係が意思疎通を阻害し、誤った判断が覆されないまま事故に至ったケースが多くある。鉄道でも、福知山線脱線事故において事故車両に乗り合わせながら上司の指示で事故現場を離れ出社した問題や、2011年のJR北海道石勝線特急スーパーおおぞら脱線火災事故において、異常時マニュアルに運輸指令の指示がない限り乗客を外へ避難させることができないと定められていたために脱出しようとした乗客を乗務員が制止した問題、2017年の新幹線N700系の台車に亀裂が発生した重大インシデントでも、異常を認めた乗務員が総合指令所に車両点検を提案しながら指令所がその必要を認めずに運転を継続させた問題など、同じ根っこから生じる事故・トラブル・不祥事は無くならない。

鉄道員が安全のために遵守すべき規程、依るべき判断基準として、国鉄が1951年に定めた「安全綱領」の一節には次のようにある。

「疑わしい時は手落ちなく考えて最も安全と認められるみちを採らなければならない」

現在では、JR東日本は「疑わしい時はあわてず、自ら考えて、最も安全と認められるみちを採らなければならない」、JR西日本は「判断に迷ったときは、最も安全と認められる行動をとらなければならない」と表現を改めて継承している。

(PC的指摘はさておき)「手落ちなく考える」というのは権威勾配の解消には不十分な表現である。そこでJR東日本は「自ら考えて」として主体性を明確化し、JR西日本は「判断に迷ったときは」と条件を緩和した。それでも、元より法令・規定・規則に厳格で、上下関係にうるさい鉄道現業において、自らの判断を貫き通すことは容易なことではない。

1969年の北陸トンネル寝台特急「日本海」火災事故で、当時の規定に反しながらも安全と考えられるみちを選び乗客の生命を守った乗務員が、事故後「規程違反」を理由に処分された事例もある(3年後に同じ北陸トンネルで車両火災が発生して30人が死亡。規定は改定され、処分は撤回された)。

それでもなお、最後の最後で旅客の安全を確保するのは、現場に立つひとりひとりの鉄道員の勇気と決断である。それが輸送に携わる者の使命と覚悟である。