日本初の「ミステリー列車」は東武アーバンパー…野田線を走った!

[1927-1936]

乗客に経由地や行先を知らせずに出発する「ミステリー列車」と呼ばれるイベント列車があります。思いもよらぬ路線に乗入れたり、普段は使われていない連絡線を通ったり、乗客は走行ルートから行先を推理して楽しむのだそうです。

世界初のミステリー列車はイギリスのグレート・ウェスタン鉄道が1932年3月25日に運行した「ハイカース・ミステリー・エキスプレス」号と言われています。たまたまイギリスにいた東京日日新聞(現在の毎日新聞)の日本人記者がこれを見ていて、帰国後に鉄道省の関係者に話したところ「これは面白い」と盛り上がり、わずか2か月後の1932年6月12日に日本初のミステリー列車が運転されることになりました。

なんと、この日本初のミステリー列車は野田線を走ったことをご存知でしょうか。

鉄道省と東京日日新聞のタイアップ企画として運行されたこの列車は「行先秘密?列車」と名付けられます。新聞で大々的に宣伝したこともあり、6月8日に発売した500枚の乗車券は1時間以内に売り切れ、急遽もう1本列車を仕立てて翌日に追加発売をするも30分もせずに売り切れるほど大きな話題となりました。駅員や乗務員にも事前に行先を知らせずに運行したそのルートが、上記地図の通り新宿から大宮・柏を経由して両国に至る98.7㎞です。

「ミステリー」のカギは大宮から柏まで私鉄「総武鉄道」を経由するというトリックです。総武鉄道は現在の東武野田線(アーバンパークライン)の前身となる鉄道会社で、1930年に船橋・大宮間を全通させたばかりでした(1944年に東武鉄道と合併して東武野田線になりました)。

現在は東武大宮駅とJR大宮駅の線路はつながっていませんが、1960年代中頃までは貨物輸送のために渡り線があったようです。『さいたま市史鉄道編』にちょうど分かりやすい写真がありました。

『さいたま市史鉄道編』収録の1960年大宮駅の写真をもとに筆者が作成

この頃野田線は東北線のホームの片隅を間借りして客扱いを行っており、その横に貨物用の側線が4本並んでいました。ホームの青森方に野田線と東北線の渡り線があったようです。これを使って野田線に乗入れたとすると、赤いルートを通ったと思われます。

御年80歳のむ~さんさんのブログ「お出かけ通信」に、1954年に東武大宮駅でご本人が撮影された貴重な写真が掲載されています。上の写真を反対側から写したもので、こちらでも渡り線が確認できます。

『お出かけ通信:blog版』「のどかな時代(14):東武野田線大宮駅1954年」から引用 撮影:む~さん(1954年)

そもそもこのミステリー列車がどんな編成で走ったのか詳しい記録は残っていませんが、走行区間のうち1932年6月時点で電化されていた路線は山手線(赤羽線)新宿・赤羽間と野田線だけなので、客車を機関車でけん引したものと思われます。総武鉄道は貨物列車用に電気機関車を3両保有しておりましたが、野田線内はこれでけん引したのでしょうか。

総武鉄道デキ1形電気機関車(東武鉄道六十五年史より)

ちなみにミステリー列車乗客御一行は大宮駅で一度下車し、駅長以下大宮駅職員の先導で大宮公園を見学、氷川神社の参拝、大宮盆栽村の見学をして列車に戻ったようです。盆栽村は関東大震災で焼け出された東京の盆栽職人が移り住んでできた町で、現在も大宮の観光名所として知られています。

おそらく一行は大宮駅には戻らず、大宮公園から乗車したのではないでしょうか。大宮駅の渡り線を通過するには2度のスイッチバックと機関車の付け替えなど手間がかかるので、その時間を有効利用するために駅周辺の散策を行程に組み入れたものと思われます。

野田線といえばキッコーマンは外せない

続いてミステリー列車は清水公園駅に向かい、ここで再び下車して清水公園で「宝探し」のレクリエーションを楽しみ、併せて昼食を取り、その後野田のキッコーマン工場を見学したそうです。車内では行先を予想するクイズなども行われていたようですが、鉄道マニア向けというよりはツアー列車の性格が強いイベントだったことが窺えます。

1930年代は花見、海水浴、ハイキングなど、鉄道で行く近郊行楽が庶民に定着していった時代です。背景には長い不況に苦しむ鉄道会社が増収のために様々な旅客誘致策を講じたことがありました。

(参考文献)
沢和哉『日本の鉄道ことはじめ』築地書館
和田和夫『エピソード鉄道百年』新人物往来社
さいたま市『さいたま市史鉄道編』