【新橋駅幻のホームの謎を追え!】第5回 渋谷と新宿の両方から浅草まで乗り入れるY字線計画

赤坂見附駅は連絡線構想に基づき上下二階建てで建設された
新橋駅幻のホームの謎を追え!

(過去の記事はこちらから)

「四谷見附~赤坂見附連絡線」構想

前回の記事では五島慶太が東京高速鉄道の経営に参画し、東京地下鉄道との直通運転実施を経営方針に定めた経緯を取り上げました。では五島はその経営方針をどうやって現実のものにしようと考えていたのでしょうか。

免許譲渡時に連絡方法に関する打ち合わせが実施されたように、3号線(渋谷~東京間)と東京地下鉄道線の直通は当初から既定路線とされていましたが、いずれの線路とも繋がらない4号線(新宿~築地間)の扱いははっきり決まっていませんでした。

【新橋駅幻のホームの謎を追え!】第3回 省新橋駅付近会社線ト譲渡線トノ連絡ニ関スル打合会

4号線は銀座駅の直下で東京地下鉄道線と交差することになっていたので、1934年に開業した銀座駅では交差部分の4号線トンネルや乗り換え階段などの準備工事が行われていました。

銀座停車場の連絡予定図(東京地下鉄道建設史)

五島としては私鉄の大ターミナル新宿駅を起点とする路線はぜひ欲しい、しかし東京地下鉄道に直通できないのであれば建設する意味はありません。そこで登場するのが東京高速鉄道株式会社創立の翌月、1934年10月1日に出願された3号線と4号線をつなぐ「連絡線」でした。申請書類には連絡線の必要性について以下のように書かれています。

 右連絡線ヲ必要トスル理由ハ、畢竟当社ガ東京市ヨリノ譲渡精神ニ則リ、専ラ市民交通ノ便利を念トシ経済的ニ将来ノ建設ニ備ヘムトスル趣旨ニ基クモノナリ

即チ、市民ノ交通上敷設ヲ急務トスル新宿及ビ渋谷両線十哩ヲ、二ケ年半ノ短期間ニ完成シテ、之ヲ同時ニ開業シ、市民ノ興望ニ副ハムトスルガ如キハ、到底困難ナルヲ以テ、其応急ノ手段トシテ、本連絡線ニ依リ、新宿及渋谷両終点ヨリ新橋駅ニ至ル地下鉄道ヲ建設シテ市民ニ対シ一日モ早ク、交通ノ利便ヲ供与セムトスル目的ニ出ズルモノナリ

東京地下鉄道が浅草・新橋間約5マイルの建設に7年もの年月を要したのに対し、東京高速鉄道は地下鉄ネットワークの速成を唱えます。建設期間を短縮すれば金利負担を抑えることができることから、設計や工法を徹底的に節約することで、着工から2年半という短期間で開業させる方針を掲げていました。

ところが準備が進むにつれて、3号線・4号線譲渡区間の全てを2年半で建設することはかなり困難だということが分かってきます。かといって交通問題上、経営上の観点から建設期間を引き延ばすことはできないので、2年半で建設可能な範囲に計画を縮小することになりました。

すなわち3号線の渋谷・新橋間と4号線の新宿・四谷見附間を第1期線とし、さらに赤坂見附と四谷見附を結ぶ連絡線を新たに設けることで、渋谷・新宿の両ターミナルから新橋を経由して浅草まで直通運転を行うY字型路線計画に転換したのです。

 東京市ヨリ譲渡ヲ受ケタル渋谷線及新宿線ハ、有楽町付近ニ於テ上下交叉ヲ為スモ線路ノ接続スルモノナク両線ニ対シ別々ニ車庫ノ設備ヲ為スコトヲ要シ、資本ノ二重投下トナル

本連絡線建設ノ為ニ本社地下鉄工事ヲ第一期及第二期ノ両工事ニ分チ、第一期工事タル新宿及渋谷両終点ヨリ新橋駅ニ至ル、所謂Y字型路線ノ竣工後、第二期工事タル四谷見附築地間及新橋東京間ノ線路ノ建設ニ着手セムトスルモノナリ

連絡線の設置は東京高速鉄道の都合だけではありません。線路が繋がっていない3号線・4号線のそれぞれに車庫を設置するのは二重投資になりますから、車庫を集約する為にも連絡線は必要だと主張しました。

都心にまとまった土地を確保するのは1路線であっても困難です。例えば東京地下鉄道が開業時に設置した上野車庫も元々は仮設の設備で、将来的には郊外に大きな車庫を設置する計画でした。現在の地下鉄でも大掛かりな検査・修理を行う工場は、路線間を連絡線で接続して共有する事例があるように、設備の集約は建設費抑制のためにも重要な観点なのです。

しかし新橋駅での東京地下鉄道線との直通運転構想に続き、地下鉄整備計画の根本を揺らがせるこの構想は東京市を大いに混乱させました。特に東京市電気局の1934年11月9日付意見書「東京高速鉄道四谷見附赤坂見附間地方鉄道敷設免許申請二関スル件」は辛辣そのものです。

 本願ヲ案スルニ会社ニ譲渡セル渋谷―東京駅及新宿―築地ノ両路線ヲ建設スル場合ニハ、本願路線即チ四谷見附―赤坂見附ノ連結ハ全然其意義無キコト容易ニ推理シ得ルモ以テ、会社ノ真意ハ本連絡線ヲ建設セル暁ニハ新宿―築地線ノ中、四谷見附―築地間ノ建設ヲ延期スルカ或ハ全然中止スルニ非スヤト推セラル

元来本市高速度鉄道路線網ノ計画ハ、幾多ノ変遷ヲ経テ大正十四年都市計画委員会ノ議決ヲ経テ決定セラレタルモノニシテ、将来全線ノ建設ヲ了リタル暁ニハ(略)理想ニ近キ路線網ヲ形成スルモノニシテ、本願ノ如キハ新会社線ト既設東京地下鉄道線トガ直通運転ヲナスコトヲ予想セバ会社トシテハ極メテ便宜ノ方法ナラムモ、一時ノ営利主義に立脚シテ本願ノ如キ変態路線ヲ建設スル時ハ本市百年ノ大計ヲ誤チ、将来ニ抜キ難キ禍根ヲノコスモノニシテ、然モ新橋に於テ両会社線カ直通運転ヲナス時ハ現在ノ免許線タル土橋(ママ)東京駅間ノ建設モ亦見合ス事ニ至ルヤモ斗ル可カラス

東京高速鉄道からすれば渋谷・新宿の2大ターミナルと新橋を繋げさえすれば目的のほぼ全てが達成されるわけで、連絡線が認められれば第2期線など延期されるか中止となるに違いありません。一時の営利主義に左右されてこのような路線を認めてしまえば都市計画百年の大計を過ることになるとして、電気局は連絡線免許の不許可処分を求めたのです。

もうひとつ東京の都市計画に大きな影響を及ぼす立場にあった、内務省の出先機関である都市計画東京地方委員会の議論では、おおむね次の3つの考え方がありました。

【仮線説】 主に東京市関係者が主張していたもので、路線そのものの変更となっては既定の地下鉄網計画が破壊されてしまうので、一時的な仮線として認めてはどうかという立場。

【変更説】 主に内務省関係者が主張していたもので、巨額の費用を投じて仮線を建設しても理に合わないので、この際路線計画自体を変更して連絡線はその一部として認めてはどうかという立場。

【並立説】 主に鉄道省関係者が主張していたもので、出願線以外の路線について今考えてもしかたないので、それは後で研究することとして、とりあえず出願路線を認めてはどうかという立場。

いずれの立場も連絡線の建設を認めることは共通しており、その他の計画路線の取扱いについての違いしかありません。それでも都市計画との整合についての結論はすぐには出なかったため、連絡線出願に関する審査は長期化することになりました。

ようやく議論が一応の決着をみることになったのは、出願から2年以上が経過した1936年12月22日の都市計画東京地方委員会のことで、「之ニ伴フ都市計画ノ路線変更ニ付テハ当局ニ於テ善処セラルベキモノト認ム」という歯切れの悪い但し書き付きで、連絡線免許は事業促進上適当である旨の答申を可決するに至ったのです。

この答申を受けて、四谷見附~赤坂見附間連絡線は1937年2月12日ついに免許されることになりました。東京地下鉄道が反対の論拠とした「都市計画」は覆されることになり、流れはお墨付きを得た東京高速鉄道に一気に傾いていくことになります。この間、門野社長と五島専務は東京市長と助役を十数回にわたって訪問したり、内務次官に連絡線問題の解決を懇願するなど、政治力を駆使してありとあらゆる働きかけを行っていた記録が残っています。

鉄道経営の枠の中で愚直にもがき続けた早川徳次は、自分のために枠すらも作り変えてしまう五島慶太に、どうあがいても敵うはずはありませんでした。次回は連絡線出願と並行して行われた、東京高速鉄道と東京高速鉄道による新橋駅の接続方法を巡る激しい議論の内容を追っていきたいと思います。

(続く)