都市部における電車と大型トラックの衝突事故(過去50年の主なもの)

イメージ画像(写真AC)
運転

京急本線神奈川新町駅脇の踏切で、下り快特電車と大型トラックが衝突し、電車が脱線する踏切事故が発生しました。

原因究明は専門家の登場を待つとして、これまでに都市部で発生した同様の事故を振り返ってみましょう。1992年の大菅踏切事故を契機として、電車の衝突安全性強化とトラックの過積載対策が進み、大きな事故は減少傾向にありますが、過去には乗客にも複数の死者が出る踏切事故が多発していたことが分かります。

 

JR成田線久住~滑河間の大菅踏切(第1種遮断機付)
1992年9月14日16時5分

止まり切れずに遮断機の降りた踏切に進入したダンプカーに、千葉発佐原行普通電車(編成4両)が衝突し、先頭車両が脱線。最前部が大破し、電車運転士1人が死亡、乗客65人が負傷した。
原因は、ダンプカーが最大積載量の4倍もの土砂を積載していたため、下り坂で止まり切れなかったもの。
この事故を受けてJR東日本は、電車の前面強化やクラッシャブルゾーンの採用、運転席の生存空間確保を進めるとともに、踏切事故防止キャンペーンを実施した。また、道路交通法が改正され、過積載に対する罰則と取り締まりが強化された。

 

名鉄犬山線平田橋駅南側の踏切(自動開閉器付き第1種踏切)
1987年7月8日10時35分

立ち往生していた大型トレーラーに、犬山発常滑行急行電車(編成4両)が衝突し、電車は全車脱線、最前部が大破し、187人が負傷した。

 

京王帝都電鉄本線の踏切(自動遮断機付き第1種)
1979年10月3日11時25分

トラックの荷台からずり落ちて線路を死傷していたショベルカーに上り急行電車(6000系、編成7両)が衝突し、ショベルカーが下り線を支障したところに、下り特急電車が衝突し、特急電車の前部2両が脱線傾斜し、1人が死亡、52人が負傷した。ずり落ちたショベルカーにトラックの運転手が乗り込んで、線路の外に出そうと試みたが約1分後に急行電車が接近して衝突し、続いて特急電車が近づき、防護するいとまがなかった。
同電鉄は踏切事故の多発のための対策として、踏切支障報知装置の整備を進めて約3分の1を終えていたが、事故の踏切は着工直前であった。

 

常磐線神立~土浦間の踏切(自動遮断機付き第1種)
1979年3月29日15時5分

平(現・いわき)発上野行上り普通電車(編成12両)が、警報機を無視して踏切に進入したダンプカーと衝突し、先頭車両が脱線転覆、2両目が脱線し、ダンプカーの運転手1人が死亡、電車運転士と乗客の58人が負傷した。

 

内房線那古船形~館山間の踏切
1973年11月23日17時21分

約20トンの船舶用エンジンを積載したトレーラと、東京発館山行特急列車「さざなみ6号」(編成9両)が衝突し、先頭車両が脱線、大破。35人が負傷した。

 

東武鉄道伊勢崎線花崎駅東側の踏切(警報機付き第3種踏切)
1970年10月9日20時17分

伊勢崎行下り準急電車(編成6両)が大型ダンプカーと衝突し、電車4両が脱線転覆し、5人が死亡、237人が負傷した。
原因はダンプカーの無法通行で、前年に続いて同じ線区の近い踏切での大事故であった。踏切についての繰り上げ整備が要望された。

 

東武鉄道伊勢崎線館林駅近くの踏切(警報機付き第3種踏切)
1969年12月9日8時15分

浅草行上り準急電車(編成6両)が大型クレーン車と衝突して脱線転覆し、7人が死亡、142人が負傷した。
踏切は、線路に対する見通しがよく、警報機も鳴動していたのにクレーン車が無理に通行しようとしたためであった。この種の踏切の自動遮断機の整備と、自動車の交通ルールの順守が要望された。

 

南海電鉄本線樽井~尾崎間の踏切(警報機付き第3種踏切)
1967年4月1日19時30分

和歌山行下り急行電車(編成5両)が、エンストで立ち往生していた大型トラックと衝突し、電車は炎上したトラックを抱き込んだまま脱線走行して、男里川鉄橋より3両が転落し、5人が死亡、186人が負傷した。

 

小田急電鉄本線和泉多摩川~登戸間の踏切(警報機付き第3種踏切)
1961年1月17日17時25分

向ヶ丘遊園行普通電車(編成4両)が砂利積みダンプカーと衝突し、電車の1・2両目は多摩川鉄橋より脱線転落、3両目が脱線、ダンプカーが大破し、ダンプカー運転手1人が死亡、21人が負傷した。
電車は折返し駅の近くで乗客が約80人と少なかったのが幸運であった。
原因は、ダンプカーが警報機の警報を聞きながら一旦停車を怠ったため。

 

【参考文献】久保田博『鉄道重大事故の歴史』など