銀座線銀座駅リニューアル工事により銀座空襲の爆撃跡が露出してる件について

[1937-1945]戦時輸送の時代

HIGUさんからの情報提供を受けて、三連休最終日の銀座駅に走りました!(ありがとうございました!)

もうすぐでちょうど74年目を迎えようとしている、1945(昭和20)年1月27日。56機のB29爆撃機が白昼の東京都心を襲いました。前年から軍事工場を目標とした爆撃は始まっていたものの、未だ空襲の怖さを知らない都会の人々は曇天の冬空を物珍しそうに見上げていたといいます。この「銀座空襲」では日比谷から有楽町、銀座にかけての都心一帯の建造物が大きな被害を受けました。

被爆箇所のひとつが銀座線の銀座駅です。銀座四丁目交差点の西南側、鳩居堂ビルの前にある現在のA2出口の真横に爆弾が落下し、道路に大きなクレーターを作りました。

穴の横にあるコンクリート壁と鉄骨が地下鉄出入口 撮影:石川光陽(1945年1月27日)出典『グラフィックレポート 東京大空襲の全記録』

営団の報告書によると、爆弾はトンネル上部に到達して爆発。鉄骨鉄筋コンクリートのトンネル上部に3メートルほどの大穴が空き、鉄骨の桁が折損、爆発で破壊された水道管から大量の水が流入し、線路が水没したといいます。

銀座新橋寄西側出入口付近約3 メートルの箇所に爆弾落下し、線路構築上部まで到達して爆発せるものの如く。路面に穿たれたる漏斗孔は径約15 メートル深さ約5 メートルにして、前記駅出入口の路面近くは破壊され、下部階段には亀裂を生じ、鉄骨鉄筋コンクリート構築には幅2.8 メートル⾧さ約3 メートルの孔を生じ、鉄骨コンクリート桁を折損の上、構築上部に敷設しありたる水道鉄管(内径800 ミリ)も同時に破壊され、大量の水は放出し土砂と共に隧道内に流入して延⾧約40 メートル余線路を埋没す。浸水は逐次増水し17 時頃には京橋駅迄浸水し軌条面25 センチに達す。

帝都高速度交通営団「戦時鉄道災害情報報告」より

 

復旧作業にあたる人々と比較してクレーターの大きさが分かる
撮影:石川光陽(1945年1月29日)出典『グラフィックレポート 東京大空襲の全記録』

現在の同じ場所。当時のままの姿の銀座和光。

三越百貨店前から撮影した被爆箇所。鳩居堂ビルが炎上した。 撮影:石川光陽(1945年1月27日)出典『グラフィックレポート 東京大空襲の全記録』

現在の同じ位置から。右端の茶色いビルが現在の鳩居堂ビル。

爆弾が直撃した箇所を駅平面図に重ねると、真下には銀座線の浅草方面行き線路があることが分かります。

銀座駅平面図と地上の位置関係

地下から見たA2出入口。平面図のA2出入口右にある柱が斜めに並んでいる部分。

トンネルを損傷した銀座線は、3月9日まで被災個所を避けて変則的な折返し運転を行いました。

銀座駅には、空襲被害の痕跡が残っています。これまでは化粧パネルで覆われていたため、この部分だけ構造が異なる以外のことが分かりませんでしたが、銀座駅のリニューアル工事開始に伴い化粧パネルが取り払われ、被爆跡が数十年ぶりに露わになりました。

化粧パネルに覆われていた頃の被爆個所。天井からモルタル部分が下に広がっていた。

工事のために化粧パネルが取り外され、モルタルも取り払われた。

戦時中の地下鉄の記録はほとんど残っておらず、銀座駅がどの程度の被害を受けて、どのように復旧をしたのか詳細は分かっていませんでした。被爆跡に触れた数少ない記録が、地下鉄開業50周年を迎えた1977(昭和52)年に発行された種村直樹著『地下鉄物語』です。

いまも営団銀座線銀座駅の新橋側はずれにある信号取扱所前で、浅草方面ゆきの側壁を見上げると、爆弾による衝撃の跡が生ま生ましく残っている。タイル張りの壁のコンクリートの上部がずれて飛び出しているが、崩れるおそれはないとのこと。

ここでは爆弾の衝撃でコンクリート壁がずれて飛び出していると書かれていますが、今回内部構造があらわになったことで、この説明は実際の状態とは異なることが分かりました。

平面図で赤く示した、被爆箇所(浅草起点7km280m地点)の渋谷方面と浅草方面を比較したのが次の画像です。

銀座線7㎞280m地点 渋谷方面

銀座線7㎞280m地点 浅草方面・被爆跡

渋谷方面はトンネル壁面が凹状ですが、爆撃を受けた浅草方面の壁面は凸状であることが分かります。

未撤去の化粧パネル形状から凸状になっていることが分かる。

元々は凹んでいた壁面に、多数の鋼材をコンクリートで埋め込んでいる事が分かります。そして、トンネル上部の「ずれて飛び出した」ように見えた部分は、鉄骨が鋼材と接続する形で設置され、その周辺をモルタルで埋めて隠していたことが分かりました。この鉄骨は何のために壁からはみ出してまで付けられたのでしょうか。

戦前に作られた銀座駅は、現代のトンネルとは異なる「鉄構框(てっこうかまち)」と呼ばれる構造をしています。これは「日」の字を横に倒した形状に組んだ鉄構框を等間隔に並べ、その間を鉄筋でつなぎ、コンクリートを流し込む鉄骨鉄筋コンクリート造りの一種です。

銀座駅被爆箇所に使われている鉄構框『東京地下鉄道史(坤)』

鉄構框が配置されたトンネルのイメージ図

通常、鉄構框はホームの柱を軸に左右対称になるのですが、信号取扱所脇のトンネルだけは両側で形状が異なっていることに気づきます。

銀座駅信号取扱所脇 渋谷方面

銀座駅信号取扱所脇 浅草方面(被爆跡)

渋谷方面は天井から側壁にかけてつながる鋼材が見えますが、浅草方面の壁面には鋼材がなく、壁面に後付けされた鉄骨が梁を支えています。ここは爆弾が直撃してトンネルに大穴が空いた個所ですから、その際に線路上部の鉄構框も破壊されてしまったのでしょう。しかし、資材不足によるものか、鉄構框を元通り復旧することができなかったため、代わりの梁を置いて鉄骨で支える構造にしたのです。

鉄骨が充てられた部分と、右隣の通常の構造を比較すると、天井の高さが明らかに異なることが分かります。この部分に直径3メートルの大穴が空いたということでしょう。

ホーム端で暗いため、全体像が写真では分かりにくいので加筆してみました。トンネル側壁に6本の鋼材を埋め込み、これと接続した4つの鉄骨によって梁を支えていることが分かります。

赤く塗った部分が桁を受けるために埋め込まれた鋼材

いかにも応急処置然とした見栄え故に、不安を与えないように鉄骨部分をモルタルで埋めたのでしょうが、強度は十分に確認されていることから、現在に至るまでそのまま使われてきたのでしょう。

気になるのはこの後です。被爆跡は再びモルタルで埋められて、パネルの中に隠されてしまうのでしょうか。数十年ぶりに姿を現した戦跡の継承は、伝統の継承をコンセプトに掲げる銀座線リニューアル計画の趣旨にも沿っているはずです。

東京の都心が戦争の舞台となり、地下鉄にも被害が及んだ歴史を後世に伝え、今後も地下鉄が平和のうちに走り続けることができるよう、被爆跡をしっかりと保存・公開することを、東京メトロに望みます。

現地に見学に行く際は、ホームドアに接近したり、ホームから身を乗り出すことは絶対にしないでください。黄色い点字ブロックの内側から見える範囲で安全に見学してください。

戦時中の営団地下鉄の実情についてまとめた同人誌を発行しています。書泉の店頭とオンライン通販にて1200円で販売していますので、この時代のことに興味がある方は是非ともご覧ください。

同人誌「戦ふ交通営団 戦時下の地下鉄」紹介ページ