営団本社が焼け落ちる寸前だったのは1945年2月25日でした

空襲翌日2月26日の神田錦町付近。左奥にニコライ堂が見える(撮影:石川光陽)
[1937-1945]

終戦記念日が間近ということで、戦争とお詫びネタです。

3月10日に以下のような記事を書きました。

東京大空襲と交通営団―1945年3月10日未明の戦い

ここで、東京大空襲の際に上野駅前の営団本社(現在の東京メトロ本社と同じ位置にあった)に迫りくる火の手を、職員が必死に水をかけて延焼を食い止めたという話を紹介しました。

これは営団が1977年に発行した「地下鉄運輸五十年史 総括編」という冊子を根拠として書いたものでした。著者の西川由造氏は1927年に東京地下鉄道に入社し、運輸課の立ち上げから地下鉄運輸に携わった生き字引のような方です。

同書には次のように記されています。

 昭和20年5月10日(元陸軍記念日)に、夜半の0時08分より2時37分頃までにB29の150機編隊が東京に分散波状攻撃の来襲があった。この当日の被害地域は山手線内側の各区全部と・品川・大田・世田ケ谷、渋谷、豊島、北、板橋、荒川、足立、葛飾、江戸川と東京の殆んど各区に亘って大部分の被害を受けた。このために死者約8万人、焼失家屋 26万戸と空襲災害中最も大きな被害を受けたのであった。

下谷地区では、浅草方面より延焼してきた火勢は、大火特有の烈風となって次第に上野方面へ延焼して来た。既に稲荷町方面を越え、遂に営団ビル隣接の旅館や現在のパン屋も燃え出してきた。

営団では2階南側の窓から類焼の危険が多いので、2階の運輸部当直員は応援の上野駅員と共に一体となって、先ず南側の窓に近い机や椅子、書類戸棚(現在の営業部庶務課のある位置)を悉く急拠北側の窓付近に移し大きな酒樽を5個程置いてリレー式に水を運び、これを満水してバケツにより南側の空室になった場所をびしゃびしゃに水を旧いた。

又東南隅にあった運輸部長室も囲いを破裂して部屋内の凡ての物を北下方面に移して同様に水びしやにした。あっという間もなく南側の窓より3米に及ぶ大きな火炎が入ってきたので、バケツ消火班は必死となって大きなかけ声と共に手早く水をかけた。やがて隣家の火勢が弱まると共に・窓より入った火炎もなくなってきた。

若し2嗜が焼失すると、階段やエレベーターによって上層階の火災危険は大きくなるので、2階の防火でこのビルの災害を厄れたのである。2階の一同は空腹になったが食べるものがないので樽の水で乾杯し万才を三唱した。営団ビルから北側一帯の民家が戦災で焼失してないのは、このビルが防火壁の役目を持ったためである。

出典:西川由造『地下鉄運輸後十年史(総括編)』p.126-127

まったく無批判に記事にしてしまったわけですが、よく調べると、どうもこれは別の空襲の際のエピソードと混同しているのではないかという疑念が沸き上がってきました。

たとえば1991年に発行された、営団地下鉄五十年史には次のようにあります。

 2月24日から翌日にかけては、浅草、上野一帯の空襲があり、稲荷町方面からの火が営団本社のある上野車坂方面へと迫った。営団本社ビルの周辺には大小の旅館が密集していたが、南側に隣接する群玉舎という旅館や東側一帯の民家が燃え始めた。

営団で当日宿直していた数人の職員は、延焼のおそれがあった2階の西南の隅の部長室の仕切りを取り外し、机や椅子を北側に移し、数個の四斗樽にバケツリレーで水を運び、懸命に防火に努めた。群玉舎が焼け落ちてようやく火勢が衰え、同時に風向きも変り、幸い大事に至らなかった。

この部長室でバケツリレーをしたというエピソードは「運輸五十年史」の記述と一致するのですが、ここでは2月24日から25日にかけて行われた空襲時のエピソードとされています。

東京都心を標的に行われた空襲のうち、特に規模が大きかったのは次の6回です(いずれも1945年)。

  • 2月25日 攻撃目標:神田・御徒町・上野
  • 3月10日 攻撃目標:東京都心下町全域(東京大空襲)
  • 4月13日-14日 攻撃目標:東京北部郊外(豊島・王子・滝野川・荒川)
  • 4月15日-16日 攻撃目標:東京南部郊外(蒲田・大森)
  • 5月23日-24日 攻撃目標:東京都心南部(目黒・品川)
  • 5月25日-26日 攻撃目標:東京都心西部(山手大空襲

※以前記事でも取り上げた1月27日の「銀座空襲」は被害は大きいのですが、飛行機工場を標的とした爆撃が悪天候により失敗に終わったため、急遽都心に爆弾を投下したもので、その主体も焼夷弾ではなく通常爆弾だったことから除外しています。

米軍が「ミーティングハウス1号作戦」と呼称した2月25日の空襲は、カーチス・ルメイによる焼夷弾を主体とした最初の大規模空襲でした。この作戦の成功を受けて、焼夷弾の効果をさらに高めるため、強風の日を狙って夜間・低空爆撃を行ったのが3月10日の「ミーティングハウス2号作戦」、つまり東京大空襲です。

「営団五十年史」では「2月24日から翌日にかけて」とありますが、深夜に日をまたいで行われた空襲ではなく、それぞれ別の2つの空襲です。

東京都戦災誌によると2月24日の空襲は、19時ごろに1機のB29が投下した爆弾と焼夷弾によるもので、爆撃で建物が倒壊し、住民の避難や消火活動を妨げ、被害が拡大したとあります。主な被災地域は<下谷区>御徒町、西黒門町、二長町、仲御徒町、竹町<浅草区>蔵前橋上、小島町、三筋町であり、上野駅前には被害はありません。

25日の「ミーティングハウス1号作戦」は前日とは全く規模が異なる空襲で、約130機のB29が10機程度の編隊を組み、広範囲を爆撃したものです。車坂町(上野駅前、現在の東上野3丁目付近)が含まれているので、該当するのはこちらの方でしょう。

米軍の作戦任務報告書(三省堂『東京を爆撃せよ(新版)』参照)によると、この空襲の焼失地域は概ね次の図(谷謙二 今昔MAPで作成)の通りです。

被害の中心は神田駅付近で、上野周辺は被害の一部に留まっています。となると、「営団五十年史」の記述もおかしな点があることになります。

2月24日から翌日にかけては、浅草、上野一帯の空襲があり、稲荷町方面からの火が営団本社のある上野車坂方面へと迫った

火は稲荷町方面ではなく、南側から迫ってきたはずなんですよね。実際、その次にはこう書かれているわけです。

営団本社ビルの周辺には大小の旅館が密集していたが、南側に隣接する群玉舎という旅館や東側一帯の民家が燃え始めた。

営団で当日宿直していた数人の職員は、延焼のおそれがあった2階の西南の隅の部長室の仕切りを取り外し、机や椅子を北側に移し、数個の四斗樽にバケツリレーで水を運び、懸命に防火に努めた。群玉舎が焼け落ちてようやく火勢が衰え、同時に風向きも変り、幸い大事に至らなかった。

東側一帯の民家が燃え始めたことを稲荷町方面からと説明している可能性はあるにせよ、バケツリレーによる攻防戦は「西南の隅の部長室」で行われたということは、火はその方向から迫っていたはずです。

「南側に隣接」していた「群玉舎」という旅館が焼け落ちてようやく火勢が衰えたという書きっぷりもそれと符合します。

※群玉舎は、群馬と埼玉を足した「ぐんたましゃ」ではありませんよ。「ぐんぎょくしゃ」と読みます。東北線、常磐線からの「おのぼり客」御用達の旅館だったそうです。今でも東上野には非チェーン系のビジネス旅館が点在しています。

ちなみに先に引用した「運輸五十年史」では「東南隅にあった運輸部長室」と書かれていますが、群玉舎との位置関係を考慮すると「西南」側のはずで、「営団五十年史」編纂の際に誤りを修正したものと思われます。

このチラシで番地の確認ができました。確かに営団本社の南隣です。

「運輸五十年史」は1977年発行、「営団五十年史」は1991年発行ですが、旧営団本社は1989年までそのまま使われていたので、必ずしも古い方が正確というわけでもなさそうです。

また「当日宿直していた数人の職員」という一文を見ると、深夜の出来事のような気がしてしまいますが、違います(「運輸五十年史」には宿直ではなく当直と書かれています)。

この日の東京は雪が降っており、工場を爆撃する作戦を改め、市街地に対する空襲に切り替えられたこともあり、6回の大規模空襲の中では唯一日中(15時ごろ)に行われています。それではなぜ限られた職員しかいなかったかというと、1945年2月25日は日曜日なんですね。

こうやって見てみると、どうも「営団五十年史」も

  • 2月24日から翌日にかけて
  • 稲荷町方面からの火が営団本社のある上野車坂方面へと迫った
  • 宿直していた数人の職員

これらの記述を見るに、3月10日の東京大空襲にかなり引っ張られているというか、誤ったイメージで書かれているようです。

もしかすると、営団ではこの件はしばらくの間、3月10日の「東京大空襲」の際の出来事として語られていたのを、「営団五十年史」編纂の際に空襲の日付と部長室の位置関係だけを修正して記したのかもしれません。

戦争の記憶を語り継ぐことがいかに難しいかということですね。