女性乗務員銃後にて、斯く戦えり―日本女性鉄道員史(後編)

京成電気軌道の女性運転士(京成電鉄85年のあゆみより)
[1937-1945]戦時輸送の時代

100年前に実在したエプロン姿の22歳女性駅長!?―日本女性鉄道員史(前編)

ガールズ・アンダーグラウンド―日本女性鉄道員史(中編)

鉄道史において最も女性が「活用」され「活躍」した時代が、1944年から1947年までの3年間だったことは間違いないでしょう。

太平洋戦争が勃発して戦線が拡大、そして戦局が悪化していくにつれ、成年男性のほとんどが軍隊に召集されるようになりました。たとえば国鉄の応召・入営による在籍不在者は、1937年の1万5千人から、1944年は17万人にまで増加しています。その穴を埋めたのは女性だったのです。

開戦からしばらくは女性の労働動員は志願制かつ選抜される形で、対象年齢も満16歳以上25歳未満に限られていました。しかし1943年に入るといよいよ労働力不足が本格化し、女性の「活用」を本格的に検討しなければならない状況になりました。

1943年6月には労務調整令が改定され、女子で代替出来る職種、鉄道においては本社事務員、駅出札・改札、車掌などへの男子の就業が禁止されます。それら職種は同年5月から動員が開始された未婚の22歳から39歳の女性からなる勤労報国隊員によって補充されました。

https://i1.wp.com/upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c5/Women_volunteer_corps2.JPG?resize=400%2C326&ssl=1

その流れはさらに加速します。1944年3月からは志願者全員を対象として、学校や町内会などを通じて組織的に動員が行われることになり、1944年8月には「女子挺身勤労令」が公布され未婚女性の就業が義務化されました。1945年3月には、女子挺身隊の数は45万人にも達していたといいます。

彼女らの多くは軍需工場、そして軍需生産を支える鉄道に動員されました。

鉄道各社の女子挺身隊

前回紹介した東京地下鉄道の後身にあたる帝都高速度交通営団では、元々女性駅員を採用していたこともあってか、他社と比べて早くかつ徹底的に女性を配置しています。とにかく人手不足で一時は常時募集常時採用の状態だったそうで、動員が義務化される前に「徴用逃れのため」営団に就職した女性もいたようです。

営団の女性職員たち

乗務員についても、1943年12月に初の女子車掌12名を発令、2週間の教習を経て浅草・渋谷両車掌区に6名ずつ配属されたのを皮切りに、男性の就業制限以降は車掌のほとんどが女性になりました。1944年8月には女性運転士も誕生し、終戦時には約100名の運転士の半分は女性でした。

このうち元々の女性社員と動員された女性がどれだけの比率だったのかを示す資料は見つかりません。ただ国鉄で1944年5月に女性車掌、7月に女性運転士が誕生したのが、一般的には戦中期における女性乗務員の最初の事例とされていることからも、他社局とは一線を画していたことが分かります。

(左写真は営団女性車掌、右写真は国鉄池袋車掌区女性車掌)

会社の規模にもよるのでしょうが、特に女性乗務員養成には社局間で方針の大きな違いがあったようです。東急五十年史には、東急の女子挺身隊員の運転士・車掌養成はわずか1か月の学科・実地訓練で乗務を開始する促成栽培だったと書かれています。

一方京成では「旅客の生命をあずかる大切な業務であるため、希望者の選考や教育に万全を期した(京成55年史)」こともあって、終戦時に単独乗務が可能な女子運転士は2名、車掌は5名でした。

(左写真は京成女性車掌、右写真は東急渋谷管理部井ノ頭線女性車掌)

 

戦後の女性鉄道員

彼女らの銃後の戦いは、1945年8月15日を以て停戦となったわけではありません。戦後も男性の復員が進むまでは鉄道現業を回し続けていました。そして男たちが職場に戻ってくると”代用品”たる彼女らは任を解かれ、家庭へ復員していくのでした。

たとえば小田急電鉄(当時は大東急の新宿管理部)では、終戦時女子挺身隊員70名を含む約500人の女性現業員が在籍していましたが、戦後男性が復員してくるに従って徐々に数を減らし、1951年に全員が退職したとあります。

しかし戦時動員という特殊な環境下であったとはいえ、これだけの女性進出が実現したというのに、どうして女性鉄道員は姿を消すことになってしまったのでしょうか。それは女性保護という名の下に定められた新たな就業制限によるものでした。

憲法第27条に基づいて1947年に制定された労働基準法では、戦前の不十分な労働者保護法規を改め、先進的・民主的な労働条件を実現するために、様々な制度・規制が新たに導入されました。女性保護もその一つで、男女の賃金格差禁止や生理休暇など先進的な規定が登場した一方、「女子保護規定」によって様々な制約を受ける事にもなったのです。

大きな影響を及ぼしたのが、一部の業種を除いて女性の深夜労働、休日労働が禁止されたことでした。曜日に関係なく、深夜労働も含む泊まり勤務を原則とする鉄道現業においては、女性の追放を意味するものだったからです。こうして女性鉄道員は一転して冬の時代を迎えることになります。

1999年の大転換

再び女性に鉄道現業員の門戸が開かれるには、1985年の男女雇用機会均等法制定、実質的には1999年の労働基準法改正まで待たねばなりませんでした。1999年に女子保護規定が緩和され深夜勤務や休日勤務が解禁されことで、鉄道各社は女性の採用を本格的に開始します。

東急電鉄採用ページより

ただそれまでの間女性駅員が全く存在していなかったわけではありません。たとえば1983年の朝日新聞の連載記事によれば、営団に”最後の女性駅員”が2人在籍しており、55歳で勤続40年とあることから1943年入団の戦前からの生き残りだったことが分かります。記事によると1959年までは(おそらくオール日勤で)改札に立ち、それ以降は勤怠管理や給与計算などの事務作業や駅員の食事を作るなど、泊まり勤務を伴わない補助業務をしていたようです。

現在の大手鉄道会社の女性比率は概ね5~10%程度ですが、新卒社員の女性比率を30~40%にしていくという数値目標を掲げている会社も増えています。今後ますます採用難は続くでしょうから、女性の採用は拡大の一途を辿るでしょう。

法的な制約がなくなった今、残るは女性を受け入れられる設備の整備と、出産・育児を経ても働き続けられる社内体制の構築が鍵となります。マスコットでも、代用品でもない、本当の意味で女性がレールに輝く日がやってくるのか、鉄道各社は今改めて問われています。