丸ノ内線国会議事堂前駅を電車が通過した日―地下鉄マンの矜持と敗北

[1957-1973]地下鉄はまだか

国会前でデモが日常的に行われるのは、60年安保、70年安保以来のことだと言われている。安保闘争時代のデモとは規模も内容も比較できないとしても、主催者発表で3万人、警察発表でも3千人ともいわれる大規模なデモもたびたび行われており、政府にとっても決して無視できない存在になっていることは間違いないだろう。

ところでしばらく前から大規模デモが行われる日に国会議事堂前駅で出入口の封鎖が行われているようだ。駅構内に警察がずらりと展開する異様な光景はTwitter上でもたびたび物議をかもしている。

2018年3月16日の国会議事堂前駅(Twitterより引用)

実は歴史をたどると、国会議事堂前のデモによって駅出入口どころか駅そのものが閉鎖されたことが2回ある。下図のように丸ノ内線国会議事堂前駅の1番(旧総理府口)・2番出口(旧議事堂口)は衆議院の敷地内に設置されており、土地の貸与にあたって営団と衆議院は「本院の警備上必要あるときは一時閉鎖を指示できる」という契約を締結していたのである。

現在の出入口封鎖がどのような要請・根拠で行われているのかは定かではないが、どちらにせよ今回紹介したいのはそういう話ではない。暴力と催涙弾が飛び交う60年安保の現場にあっても、地下鉄マンが貫こうとした矜持、そして敗北があったことを振り返ってみたい。

地下鉄自治区

安保闘争が地上で激しくなるにつれ、地下も日増しに緊迫の度合いを増していた。1959年3月の霞ケ関・新宿間開通と同時に開業したばかりの国会議事堂前駅は、池袋・東京・新宿から地下鉄を利用して国会前に来るデモ隊学生を送り込む前線基地となったことから、警備当局としては駅構内に立ち入って規制することを望んでいたようである。

ところが駅務区長の岩尾はこれを断り、地下構内はあくまでも自らの手で規制をすると申し入れたのである。それは警察からデモ隊を守るという意味では全くない。構内で座り込んだりアジ演説をするデモ隊を、自力で整理して輸送を確保するということである。

区長と本社応援部隊の3人で「政府の味方か、民衆の味方か」と問い詰められながら、必死の思いで少人数ずつ表へ連れ出したという。「どっちでもない、地下鉄職員だ」というのが彼らの立場だった。

しかし状況が激化していく中で、警備当局はそれを許さなかった。1959年12月10日、衆議院事務総長は「全学連学生の行動に鑑み」という通達を営団に送付し、議事堂口(2番出入口)と総理府口(1番出入口)の閉鎖を指示したのである。当時国会議事堂前駅の出入口はこの2か所しかなかった。それまでは総理府口は閉鎖しても議事堂口は開いて客扱いしてきたのだが、両方の出入口を警官隊が封鎖することになったため乗降が不能となり、丸ノ内線の列車133本が4時間に渡って国会議事堂前駅を通過することになった。

1959年12月10日に何があったのかというと、現在まで語り継がれるような大規模な衝突があったわけではないようだ。このサイトによると日比谷野音で開催された全学連中央集会の参加者1万人が国会に移動してデモを行う予定だったが中止されたという。2度目は1960年4月23日に通達された。この時は社会党が自民党の安保衆院通過強行方針に対してゼネストを含む強力な院外闘争を訴え、2500人が参加する全学連国会デモが行われている。

国会議事堂前駅を通過する列車を見送りながら、駅に平穏が訪れたという安堵と共に、外部の圧力で鉄道輸送の使命を放棄してしまったという思いが込み上げてきたという。自らの手で輸送を守り抜こうとした男たちの闘いと、それを許さなかった警備当局。契約がある以上営団にそれを拒むことはできなかったとしても、それは自治の敗北だったのである。

ちなみに国会突入を図る全学連デモ隊と機動隊が衝突し、樺美智子さんが死亡し、400人以上の負傷者を出した1960年6月15日はこの措置は取られていない。