【城東電気軌道外伝】実業家・フィクサー千葉胤義について

城東電気軌道百年史

少なくともweb上では日本で一番「城東電気軌道」に詳しい弊サイトですが、来訪者の「検索ワード」を見ていると時折、城東電気軌道の第2の仕掛け人である「千葉胤義」を調べている人が見受けられます。

千葉胤義は色々と謎の多い人で、web上はもちろん、書籍、論文でもなかなかその実像を捉えることができないのですが、城東電気軌道を調べる過程で分かったこと、出典などをwebに公開しておくことで、これから千葉氏について調べる人の手がかりとしておきたいと思います。

というのも、私も調べるにあたって手がかりとなったのが、つらねさんのブログの記事だったからです。城東電気軌道百年史が、単なる記録集ではなく、大きな広がりを持つことができたのは、こうした情報との出会いによるものでした。

千葉胤義の城東電気軌道とのかかわりは下記記事(上・中・下)を参照

【城東電気軌道百年史】あらすじの紹介(2)千葉胤義の時代 上

さて、前置きが長くなりましたが、千葉胤義について。

『日本名家肖像事典 第15巻』に掲載された不鮮明な写真しか見つけることができなかったが、本木雅弘に似たイケメンである

氏の履歴は、1917(大正6)年発行の東洋新報社『大正人名辞典』に詳しく記されています。

同書発行当時の肩書としては、東北電気株式会社 遠田電気株式会社 江戸川電気株式会社 広根鉱泉株式会社各社長 浦賀瓦斯株式会社取締役 豊州瓦斯株式会社 郡山電気株式会社各監査役とあります。以下、本文を抜粋します(旧字、仮名遣い等を改めた)。

君は宮城県の人、千葉良造君の三男にして明治10(1877)年11月15日を以て生まれる。累代醤を業として同地の旧族たり。夙に普通学を卒へ進んで高等中学に在学すること数年、優等の成績を以て卒業し、次いで東京英語学校に語学を専攻し、頗る外国語に造詣す。而して実業界に大志を懐ける君は、先ず列国の趨勢を観察するの必要を切実に感じ、始め印度、支那、満州地方を踏破し、東洋の形勢を目撃して大いに得る所あり。帰朝して後、外国人と謀り日本鉱物輸出合資会社を創設し、着々功績を挙げたり。次で最近明治43(1910)年12月、資本金50万円を以て、豊州瓦斯株式会社を起こし、大分市別府に瓦斯供給事業を始め、その監査役に挙げられ、また宮城県に大崎電気株式会社監査役となり、小倉鉄道株式会社監査役を兼ね、尚金傑大倉喜八郎氏等と謀り電気瓦斯株式会社を発起し、電気瓦斯工業の発展に尽瘁す。君少壮気鋭意気旺盛、実に斯界の逸材と言うべし。

最初に設立した「豊州瓦斯」とは、現在の大分ガスのルーツにあたる企業です(大分ガスホームページ「沿革」より)。

またこの他に、同一人物とは断定できないものの、明治36(1903)年発行の自転車専門誌『双輪(26号)』に、自転車輸入販売業者の草分け「東京双輪商会」関係者として千葉胤義の名前が登場しており、海外ビジネスに関心が深かったことがうかがえます(参照 谷田貝一男(2014)「明治期の自転車利用女性に対する差別化の様子」『自転車文化センター研究報告書』(6),日本自転車普及協会自転車文化センター)。

家族構成は次の通り。

  • 妻 かね 1883(明治16)年8月生まれ
    ※ 神奈川県人村田健二郎二女、村田茂正従姉
  • 長男 胤重 大正6(1917)年5月生まれ
  • 長女 操子 明治44(1911)年9月生まれ
  • 二女 美子 大正3(1914)年1月生まれ
  • 三女 千代子 大正9(1920)年3月生まれ

年次ごとの肩書は次の通り。電気・ガス事業への関与は、1916年を境に減っていることが分かります。その背景については『城東電気軌道百年史』にて大倉財閥との関係から考察を試みているので、興味があればどうぞ。

年度 出典 役職
1912 日本紳士録
大正2年用(第17版)
大崎水電株式会社、安東瓦斯株式会社各取締役、豊州瓦斯株式会社監査役
1913 日本紳士録
大正3年用(第18版)
東北電気株式会社社長、遠田電気株式会社、大崎水電株式会社、浦賀瓦斯株式会社、城東電気軌道株式会社各取締役、豊州瓦斯株式会社、郡山電気株式会社、安東瓦斯株式会社各監査役
1914 日本紳士録
大正4年用(第19版)
江戸川電気株式会社、東北電気株式会社各社長、城東電気軌道株式会社常務取締役、遠田電気株式会社、安東瓦斯株式会社、浦賀瓦斯株式会社各取締役、豊州瓦斯株式会社、郡山電気株式会社各監査役
1915 人事興信録(第4版) 東北電気株式会社、遠田電気株式会社、江戸川電気株式会社各社長、城東電気軌道株式会社、安東瓦斯株式会社、浦賀瓦斯株式会社各取締役、豊州瓦斯株式会社、郡山電気株式会社各監査役
1916 日本紳士録
大正5年用(第21版)
広根鉱泉株式会社、江戸川電気株式会社、西上電気株式会社各社長、榛名電気軌道株式会社常務取締役、安東瓦斯株式会社、秋田石油鉱業株式会社各取締役、豊州瓦斯株式会社監査役
1918 日本紳士録
大正7年用(第22版)
広根鉱泉株式会社、秋田石油鉱業株式会社各取締役、豊州瓦斯株式会社監査役
1919 日本紳士録
大正8年用(第23版)
東京化学製油株式会社代表、豊州瓦斯株式会社監査役
1920 日本紳士録
大正9年用(第24版)
日本亜硫酸工業株式会社専務、豊州瓦斯株式会社監査役
1921 人事興信録(第6版) 日本亜硫酸工業株式会社取締役、豊州瓦斯株式会社監査役
1925 人事興信録(第7版) 秋元皮革株式会社取締役
1928 人事興信録(第8版) 近栄電球製作所株式会社相談役、朝鮮産業合資会社、●水産合名会社各代表社員

「実業の日本」27巻15号の「成金の今昔」という特集記事は、「前江戸川電気会社長」の肩書で千葉胤義が寄稿したもののようです。上述のとおり既に実業の一線からは退いている時期ですが、江戸川電気が東京電燈に吸収合併された後に関わっていた会社があるにもかかわらず、この肩書を用いたことに千葉の「江戸川電気」への思い入れを感じさせます。

まず、冒頭の編集部による人物紹介から。

記者曰く、千葉氏は有名な東北帝大教授文学博士千葉胤成氏の令兄で、旧仙台藩の名門に生まれ、故福澤先生も一目を置かれ、大西郷に匹敵すべき大人物と謳われた仙台藩の英傑、大童信太郎氏の塾に育てられ、年少志を抱いて語学校に学び、後実業界に入りて各種の事業を経営し、就中電気瓦斯事業の創立普及に熱中し、為に東京付近は記するに及ばず、全国において現に存立する同事業にして、氏の発起創立に関わらざるもの少なく、●に江戸川電気株式会社社長、城東電気(ママ)株式会社常務取締役、その他幾多の電気瓦斯会社の重役を兼摂していたが、哈爾濱を中心とする植民政策の遂行計画のため、一時諸会社の関係を断ち、現在は秋元皮革株式会社取締役、その他少数会社の重役を兼摂するのみであるけども、夙に産を傾けて人材の養成に志し、為に直接間接に氏の庇援に依って、名を成し功を遂げた人物が少なくない。『佐倉義民木内宗五郎』其の他の著書がある。

「成金の今昔」『実業の日本』27巻15号(1924年8月発行)p.43

続いて、千葉胤義の書いた本文です。

成金の今昔 五十万以上の成金四十二人中残ったのはたった三人

五十万円を握った人々

私は電気瓦斯幾多の諸会社に関係していたために、これまで種々な人々を会社員に世話したり、又自分で申しては何であるけども生来人を世話することが好きなところから、あるいは会社員の中から抜いて学資を窮して学問させたりした人々などが少なくなかった。

そうした人々の中で、欧州大戦中の財界好景気時代に一獲万金、一挙にして五十万円以上の金を儲けた者が四十二人あった。

それらのいわゆる成金連は、どういう職業に従事し、いかにして金を儲けたかと言えば、電気やガス会社に関係した社員が多く、その傍ら金物の商売や貿易に関係したりしたものが、その大部分を占め、ブローカーをして金を儲けた者もあった。

学歴は中には帝大の卒業生もあったが、その多くは貿易の学校くらいを卒業し、高等教育を受けなかった人々であった。

そうした年輩から言えば、三十五六才の者がその大部分を占めていた。

ところが一朝平和克服し不景気の暴風襲来するや、世の多くの成金連中と同じく、これらの成金連中も没落の運命に遭遇したものが多く、そのうち幸いに澎湃たる怒涛狂乱を首尾よく乗り切って生き残ったものが僅か三人しかなかった。

成金連中の有頂天振り

四十二人中の三人を除ける残りの三十九人の人々は、己を知らず、いわば大きな夢を見ていたのだった。

現にそのうちの一人は欧州戦争までは、刻苦勤倹の効果空しからず、二三万円の金を貯蓄したのであったが、それが一躍して五十万以上の金持ちになったので、全然心の中心を失ってうぬぼれてしまい、日々家を外に泊まり歩いてさっぱり宅に帰ってこない。

妻君が私の宅へ来て打ち明け話に「家内には衣服調度何不自由なく買い与えますし、万事贅沢にあてがわれていますので、物質的方面は至れり尽くせりでありますが、なにぶんにも大金を握って以来は品行ががらりと変わって、内を外の放蕩ぶりには、まことに困り切っています。今から思えば、むしろ困っていた昔の方が家庭円満で面白うございました。あなたでなければ、言うことを聞きませんから、どうかひとつ意見してください」という涙物語であった。

そこで私は忠告もし、注意もしてみたが、何しろ有頂天になって自分が一番偉いものになったような気になり、ますます欲深くなっていた際であったから、私の心からの忠告も、注意も耳に入らなかった。こうした事はその人のみではなく、他の多くの成金連中にもまた同様であった。そうして不幸にして私どもの予言は的中し、四十二人の成金のうち三人を除いた三十九人までが、将棋倒しに倒されてしまった。まことに槿花一朝の栄華に過ぎなかった。

荒波を泳ぎ切った人々

その中で幸いに荒波を首尾よく泳ぎ切った人々は、三人あった。その三人はどういう質の人であったかと言えば、一人は中学出て、一人は私立大学出身、もう一人も夜学で教育を受けた人であった。そうしていずれも苦学力行、精神を鍛練した人々であった。

その中の一人は十二才で、私の関係会社に給仕に来て、夜間の余暇を利用して夜学に通い、一生懸命に勉強した感心な青年で、性質も非常に善良で、平素の心がけも大層良い人であった。そうしてその人は一朝にして大金を握ったのを自分の力で儲けたのではないと考え、こうして成金になったのを不自然であり、従ってそうして不自然に儲けた金を自分独りで、握っていることは空恐ろしいと思った。

その結果自分の郷里で田地を買ったり、地所を買った。親戚のためにも田地を買って与えたりした。それから匿名で諸方へ寄付したりなどした。

こうして手堅く地所に投資したり、慈善行為をしたりなどした者は、この人ひとりのみでなく他の人も大体同様の行動をとった。残りの一人も手堅い投資振りをした。

なおこれらの三人は、いずれも私に世話になったと言うので、私が夫婦に子供一人の時代に立てた今の狭い家屋にいつまでも平然として住んでいるのを見て、三人相談の上に、私に内密に設計して郊外に大きな邸宅を立て、自分に提供した。

自分はその行為を謝したが、いささか考えるところあり、辞退してその邸宅に入らなかった。すると果然半年ばかりにして、たちまち反動が現れてさしも陽春百花繚乱の盛況を呈した財界は、たちまち秋風落莫の不況に沈淪するに至った。

失敗者の尊き体験

しかし蹉跌失敗した他の三十九人の人々は、決して失望落胆していたりはしない。異口同音に、実によい体験を得たと言って、発憤将来の大成を期している。そうして汗水を流して儲けた金でなければ値打ちがない。苦しんで儲けた金でなければ、長く続かない。儲けた時よりはかえって儲けない時の方が精神状態が安穏であった。順当に儲けた金でなければ何にもならないとこう言っている。まことに金銭で換えがたき尊き体験と言わねばならぬ。どうかそれらの人々がこの尊き体験を忘れずに、真の意味において成功することを私は衷心から祈っている。

それでこれらの人々が、どうして失敗したかということを後から振り返って考究してみると、要するに修養が足りなかったということに帰する。失敗した大部分の人々は、高等教育を受けていなかったということは、注目すべき現象であるが、そうしたことも失敗の一原因になっているであろうが、それよりも寧ろ世と奮闘しその苦き体験を積み、それによって心の鍛錬ができていなかったということが、根本的の原因であるように思われる。

試みに世の多くの成金連中の大金を握って、有頂天になった時の径路を見ると、十人が十人まで、まず最初に広壮なる邸宅を構え、次に蓄妾などの不品行をやり、その次に相場をやって大きな夢を描いて、ついに失敗するというのが順序であるようである。

そうして私はまた遺伝の偉大なる力を冷眼に観過することができない。世に名ある多くの成功した人々の血液の中には、何か誇るべき祖先の血が流れているようである。名門名家の子孫が没落し、祖先の名に顧みて感奮興起して成功した人が多いようである。私は世の青少年が以上述べた失敗者の活ける事実に鑑み、心の修養に多大の注意を払わんことを切望する。

最後はちょっと変な領域に踏み込んでいます。ここでは多くは語られていませんが、千葉の手掛けた事業もまた、欧州大戦による物価高騰と空前の好景気、そして反動不況に翻弄されています。ここで彼が「四十二人」の門下について語る向こう側には、間違いなく、彼自身の「転機」があったことは間違いありません。

実業界から半ば引退した1921年、千葉は『佐倉義民 木内宗五郎』という本を出版しています。木内宗五郎とは江戸前期、領主から課された重税に苦しむ農民のために将軍に直訴をおこない、重税の撤回と引き換えに処刑された人物です。大正後期の活動からは、前述の記事に記された「心の修養」に対するこだわりを感じます。

ところが千葉胤義は、それから4年後の昭和3(1928)年6月7日、52歳でこの世を去ります。資料によっては没年不詳とも書かれていますが、同年の『朝鮮公論』に追悼記事を発見しましたので、こちらも紹介しておきましょう。

千葉胤義氏逝去

山十組の顧問として、その他阪神の諸会社の顧問、相談役を数知れず持ち、朝鮮においても下岡総監時代に京阪の実業家を、大阪において一堂に集めて朝鮮に投資勧誘するの献策したり、浅野と山十の提携に依って、釜山の埋め立て問題を解決するなど縦横無尽の活躍をした実業界の怪物千葉胤義氏は六月七日心臓病で、東京青山の自宅で逝去した。

享年五十二歳、イザこれからという時に幽明境を異としたのは誠に哀惜に不堪処である。

千葉氏の才幹は奇才という風格があり、高橋是清子、大倉喜八郎男からも愛され、現にその知遇を受けて、数度欧米に漫遊し、年歯僅かに三十有四にして東京に電気ガス会社を創設して重役となった。

資性活淡にして克く後身を導き、人のために財力を惜しまず、大いに骨身になって働いている。石森本社長とも親交あり、現にこの訃報の伝わる一カ月前石森社長に、高橋子、斎藤子、床波竹二郎氏、福田大将の四氏の揮毫に依る壽という字に各自署名したる鹽瀨の羽織裏を贈呈したるが、それがやがて記念品となったのである。

同氏の出身地は宮城県登米郡石越村で砲兵少佐千葉胤知氏、東北帝大教授文学博士千葉胤成氏は同氏の令弟である。

朝鮮公論社(1928)『朝鮮公論』16巻7号

山十組とは、生糸の産地で知られる長野県岡谷市(なんと筆者の母方の故郷)発祥の製糸会社で、同じく岡谷の片倉に次ぐ日本二番目の規模を誇っていましたが、昭和金融恐慌に端を発する生糸市場の暴落で経営が傾き、1932年に倒産しています。

高橋是清、床波竹二郎、斎藤実ら政界の大物に加え、朝鮮総督府政務総監下岡忠治、参謀次長や台湾軍司令官を務めた陸軍大将福田雅太郎、実業家時代からの付き合いである大倉財閥の大倉喜八郎などビッグネームが並んでいます。晩年の千葉は、いわゆるフィクサー的な立ち回りをしていたようです。

ちなみに、7歳下の弟の千葉胤成は教育や心理学の分野で著名な研究者で、兄の死から44年後の1972年まで生きました。

千葉胤成

生年 明治17(1884)年9月21日
没年 昭和47(1972)年3月18日

出生地 宮城県

学歴 京都大学文科大学〔明治42年〕卒
学位 文学博士〔大正11年〕

京都帝大講師、大正6年助教授を経て、12年東北帝大教授に就任。戦時中は満州国建国大学教授となる。戦後は仙台市立第四中学校長、宮城県教育研究所長などを歴任し、昭和24年新潟大教授、教育学部長となる。27年東北大名誉教授、28年日大教授、のち、駒沢大学大学院教授となる。固有意識説を中心とした心理学の体系化に功績があり、日本心理学会の創設にも尽力した。「千葉胤成著作集」(全4巻)がある。

日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)

胤成の著作全集を手に入れまして、自伝部分だけ読んだところ、新たに分かったことがあるので追記します。

画像

胤成によれば、生家の千葉氏は「千葉常胤」の子孫だそうです。名前が似ているので、何か関係があるのかと思っていましたが、ついに謎が解けました。宮城県登米郡石越村の千葉氏は、常胤より22代後の良胤が、天正時代に一族郎党を従え東北に移り住んだことが由来で、江戸時代は代々医者の家系だったそうです(胤義・胤成の兄弟が継いでいます)。

◆千葉氏は、桓武天皇の血を引く関東の名族です。平安時代後期の1126年に、千葉常重が大椎(現在の緑区大椎町)から現在の中央区亥鼻付近に本拠を移したことにより、本市の歴史が始まったと言われています。詳しくは、こちらをご覧ください。

◆千葉常胤は、1180年、石橋山の戦いに敗れた源頼朝が海を渡って房総に逃れてきた際にいち早く頼朝の味方に付くことを決めました。その後、常胤は一貫して頼朝を支え、鎌倉を本拠とするよう進言するなど、筆頭御家人として活躍しました。頼朝も常胤を父のように慕っていたと言われています。常胤は鎌倉幕府の成立に大きく貢献した名将だったのです。

千葉市公式サイトより

家族構成ですが、胤義は5人兄弟の3男だったようです。

長男(名前不詳)は東京に遊学し、医者の専門学校を転々とするなど自由人でした。一方、二男(名前不詳)は旧制二高(現在の東北大学)の医学部を卒業し、医者になって家業を継ぎます。すると長男は一念発起し、内務省の試験を受けて医者の資格を得ると地元で医院を開きます。その後、軍医として日露戦争に従軍しますが、戦地で罹患した病気が元となり、帰還後若くして病死したそうです。

そして三男が胤義です。彼も旧制二高(第二高等中学校時代)を出て、その後、東京英語学校に入学します。東京英語学校は後に、旧制第一高校の母体のひとつとなりました。

四男が、後に陸軍砲兵少佐となる胤知です。胤成によると胤知は「中学2年の時に陸軍幼年学校に入学」したとあるので、旧制中学校から、仙台の陸軍地方幼年学校に編入したのではないかと思われます。その後、陸軍士官学校に進み、陸士15期(明治36年11月30日卒)に「要塞砲兵」としてその名前が確認できるそうです。胤成は五男です。男子5人で、姉妹はいなかったようです。

胤成の回顧の中に、胤義に関するエピソードもいくつか登場します。明治39(1906)年、京都帝大への入学が決まった胤成は、当時大阪で勤めていた胤義の家に泊まり込み、準備をしていました。滞在中、胤義に連れられ大阪周辺を散策し、神戸では生まれて初めてのアイスクリームをごちそうになって、世の中にこんなにおいしいものがあるのかと驚いたと記しています。世界を漫遊した胤義は、ハイカラなものが好きだったのでしょう。

胤義が実業家として表に出てくるのは明治40年代に入ってのことで、それ以前の経歴は明らかになっていませんでしたが、胤成の記述からすると大阪で下積み時代があったようです。ちなみに胤成の下宿先は、胤義が紹介した呉服屋に決まったそうです。色々と面倒見のいい兄だったようですね。

胤成は大正9(1920)年から11(1922)年までドイツに留学し、フランス、イギリス、アメリカを視察してから、大正12(1923)年に帰国しました。帰国時、家族や兄弟が横浜に迎えに来たそうですが、京都帝大に報告に行くまでの数日間、胤義の青山の自宅に泊まったと記されています。前述のように、既に胤義は実業界の一線から身を引いて『佐倉義民木内宗五郎』を記していた時代です。この時、胤義は46歳、胤成は39歳ですが、兄弟の絆は深かったようですね。