渋沢栄一の娘婿たちにまつわる、東急とかキラキラしたのじゃなくてもっと地味だけど栄一のルーツに近いはなし

渋沢栄一肖像(渋沢史料館より)
地域(江戸・東京・首都圏)

概ね20年の周期でデザインが変更されてきた紙幣(日本銀行券)。2024年から1万円札の肖像が福沢諭吉から渋沢栄一に変更すると発表されました。「諭吉」は1984年から40年近く2代に渡って親しまれてきましたので、随分印象が変わるでしょう。

諭吉に比べると知名度は低いものの、渋沢栄一は銀行、ガス、鉄道、製紙、ビールなど500を超える企業の設立に関わり、日本資本主義の父とも呼ばれる人物で、深谷が生んだ近代日本史上最高の埼玉の偉人です。東急の源流となる田園都市開発を主導したのも彼。東急さんもはしゃいでますね。

渋沢栄一はコレラで亡くなった先妻「ちよ」との間に1男2女を、後妻「かね」との間に3男1女もうけています。有名なのは4男の渋沢秀雄でしょう。秀雄はイギリスのレッチワースを始め、欧米11カ国を歴訪する世界一周の視察旅行を行うなど、田園都市の開発にも深く携わった人物です。この他、多数の愛人と庶子がたくさんいました。

ちよは栄一のいとこにあたります。ちよの兄である尾高惇忠は後に富岡製糸場の初代所長を務める人物で、栄一に論語を教えた学問の師でした。ちよの姉「みち」と結婚した大川修三の父、大川平兵衛は神道無念流の剣客で、栄一や惇忠に剣術を教えた人物です。栄一は、彼に大きな影響を与えた尾高家の二男「尾高次郎」と、大川家の二男「大川平三郎」を銀行家・実業家として育てます。渋沢栄一と愛人「くに」の子ども「ふみ」は尾高次郎に、「てる」は大川平三郎に嫁ぎ、二人は栄一の娘婿にもなりました。

渋沢栄一ブームがやってきたとしても、おそらくあまり取り上げられないであろう尾高次郎と大川平三郎については、ともに城東電気軌道の社長を務めた人物として、拙著『城東電気軌道百年史』で取り上げました。

同人誌「城東電気軌道百年史」紹介ページ

今回は地味な方の渋沢列伝ということで、『百年史』の抜粋を中心に、栄一と二人の義理の息子の足跡を紹介したいと思います。

尾高次郎

尾高次郎は1866(慶應2)年2月、尾高惇忠の二男として武蔵国大里郡(現在の埼玉県深谷市)に生まれます。父惇忠は渋沢栄一の従兄であり、栄一に論語を教えた学問の師でもありました。次郎もまた囲碁・義太夫・執筆・演説など多彩な趣味を持ち、漢文学者としても活動する文化人となりました。

1891(明治24)年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業すると、渋沢栄一が頭取を務める第一銀行(現在のみずほ銀行のルーツのひとつ)に入行。秋田支店、名古屋支店、四日市支店を歴任し、1898(明治31)年から1903(明治36)年まで朝鮮に赴任しています。

※栄一は朝鮮半島を開発し、日本の経済圏に置くことが国益上重要と考えており、第一銀行は創立5年後の1878(明治11)年という極めて早い段階から朝鮮半島に進出していました(第一銀行は朝鮮半島の事実上の中央銀行として銀行券を発行しており、この紙幣に渋沢栄一の肖像が使われていました)。

明治35年「第一銀行券(旧1円券)」

赴任中の1904(明治37)年、次郎は朝鮮の農業改良を目的とした朝鮮興業株式会社を設立し、実業家としての活動を本格化させます。次郎にとって朝鮮は実業家としての原点となる思い入れの深い土地であったようで、現地で生まれた三男に「朝雄」、四男に「鮮之助」と名付けています。

帰国後の1909(明治42)年には東洋生命保険株式会社の社長に就任し再建を託されると、契約高を300万から1920(大正9)年には1億円まで増やすなど手腕を発揮。以降、様々な渋沢系企業の経営に参画しました。1915(大正4)年に城東電気軌道の社長に就任。1918(大正7)年には武州銀行(後の埼玉銀行、現在の埼玉りそな銀行)を設立。東洋生命や武州銀行は後年、城東電気軌道の有力な出資者となりました。

1919(大正8)年には、東京運河土地を設立して砂町運河の建設計画に取り掛かります。第一次世界大戦を経て日本の重工業化が進むと、20世紀はじめまでは静かな農村だった砂村は、東京近郊にあって人手と土地が豊富な点が注目され工業の街へと発展していきます。元々江東区一帯には多くの渋沢系工場が操業していたこともあり、更なる発展を狙って計画されたのがこの運河計画でした。

【城東電気軌道百年史特別企画 第3回】尾高次郎と運河と電車―仙台堀川親水公園小史

ところが次郎は1919(大正8)年の春先、インフルエンザに罹って以降健康を崩してしまいます。時期からすると、1918(大正7)年から1920(大正9)年にかけて全世界で2千万~4千万人、日本でも40万人以上が死亡するパンデミックとなった新型インフルエンザ「スペインかぜ」でしょう。

静養中の次郎は腎臓炎を併発し、1920(大正11)年1月下旬から重篤な状態に陥りました。1月24日、見舞いに訪れた栄一は日記にこう記しています。

一月二十四日 晴 軽寒

午前九時東京発ノ汽車ニテ鎌倉ニ抵ル、尾高次郎ノ病ヲ訪フナリ十一時前同地着、直ニ三橋旅舎ニ抵リ休憩シ、尾高氏ノ別業ニ抵リテ病牀ヲ見舞フ、其容体ハ想像シタルヨリ聊有望ノ感アリ、病牀ニアル暫時ニシテ後揮毫ヲ為ス、揮毫畢リテ再ヒ病室ニ於テ種々ノ談話ヲ為ス

しかし、これが栄一と次郎の最後の面会になりました。同年2月4日午前八時半逝去。享年55歳でした。

2月8日、朝から厳しい寒さとなった上野寛永寺で尾高の葬儀が執り行われました。午後になって雪が舞い始める中、尾高の棺を乗せた汽車は上野駅から郷里の深谷に向けて出発しました。

横十軒川との合流部から建設された砂町運河に架かる第一の橋は、運河の完成を見ずに亡くなった次郎を偲んで「尾高橋」と命名され、架け替えられましたが現存しています。高層マンションに囲まれた運河跡は「仙台堀川親水公園」として親しまれています。

大川平三郎

大川平三郎は1860(萬延元)年10月、大川修三の次男として埼玉県入間郡の三芳野村(現在の坂戸市)に生まれました。

祖父の大川平兵衛は神道無念流の剣客として知られた人物で、地方の名家に請われて出稽古に回っていました。その中に渋沢家と尾高家があり、尾高次郎の父惇忠や渋沢栄一も教え子の一人でした。この縁から、平兵衛の次男「修三」に惇忠の妹「みち」が嫁ぐこととなり、修三とみちの間に生まれたのが平三郎です。

平三郎は13歳にして上京し、叔父渋沢栄一宅に書生として住込みながらドイツ語、英語を学びました。1873(明治6)年、平三郎は栄一が設立した製紙会社(後の王子製紙)に入社し、すぐに現場を取り仕切るようになります。

22歳のとき浅野総一郎に請われ、浅野が払下げを受けた深川のセメント工場の運営を任されると、昼は製紙工場、夜はセメント工場で働いて成功を収めます。やがて実業家としての活動を本格化させ、製紙業を中心に電力事業、製鉄事業、運輸業など様々な企業経営に携わり、一代で「大川財閥」を築き上げました。

平三郎は1933(昭和8)年の春に胆石病を患い、1934(昭和9)年2月には重態の報が伝えられるほど悪化するも、同年のうちに回復を遂げて業務に復帰。1935(昭和10)年2月26日には1,300人を招待して盛大なる快気祝が開催されました。この会は秘書の田幡鉄太郎を筆頭に128名準備委員が企画したもので、帝国ホテルを貸し切って、一晩の宴会に5万円を費やしたとも言われています。大卒初任給が70円そこそこの時代ですから、今なら1億円以上といったところでしょうか。

しかし翌1936(昭和11)年の冬に病気が再発し、12月30日に77歳で逝去しました。平三郎には長男義雄と、尾高次郎の次男を養子にとった鉄雄がいましたが、大川財閥は平三郎の一代限りで終焉を迎えました(ちなみに義雄の次男は競馬評論家の故大川慶次郎です)。

ところで、JR鶴見線の「大川駅」は大川平三郎にちなんで付けられた駅名です。

広大な埋立地に立地する鶴見工業地帯。この地ではじめて大規模な造成を行ったのが、大川と共にセメント工場を経営した浅野総一郎でした。浅野は1912(明治45)年に鶴見埋立組合を設立すると、約140万坪の埋め立てを開始します。

1923(大正12)年の関東大震災で、それまで東京近郊の工業地帯の中心地であった深川や本所は壊滅的な被害を受けますが、浅野の埋立地は被害をほとんど受けませんでした。また海運の大型化に対応できることもあり、日本鋼管製鉄所(現在のJFEスチール)、芝浦製作所(現在の東芝)、旭硝子など大規模工場が相次いで進出し、京浜工業地帯の形成につながります。

この埋立地の交通機関として設立され、1926(昭和2)年に開業したのが鶴見臨港鉄道、後のJR鶴見線です。

鶴見線の駅名は「浅野」を筆頭として、ほとんどが浅野家に由来しています。

「鶴見小野」は地元鶴見の大地主であった小野重行。「安善(あんぜん)」とは、安田財閥の創設者であり、浅野財閥を熱心に支援した安田善次郎。「白石」は浅野の秘書を務め、娘婿となり、後に日本鋼管の社長となった白石元次郎。そして浅野セメントや日本鋼管の経営にも携わったビジネスパートナー大川平三郎。扇町の「扇」は浅野健の家紋で、末広町も扇の「末広がり」に由来して付けられた地名です。

(浅野財閥に関する余談)

極悪!スルガ銀行の報道を見て100年前に買収された吉浜銀行のことを思い出した話