サムライ、ロンドンの地下をゆく―地下鉄に乗った最初の日本人のはなし

メトロポリタン鉄道のパディントン駅付近
[1872-1902]鉄道創成期

ロンドンに世界で初めての地下鉄「メトロポリタン鉄道」が開業したのは1863年1月9日のこと。日本はまだ幕末の世であった。

この年、徳川家光以来229年ぶりに上洛した13代将軍家茂に対し、朝廷は攘夷実行の確約を迫った。幕府はこれを受け入れるが、6月の長州藩による下関戦争、8月の薩摩藩による薩英戦争は攘夷論の限界を露呈した。9月には朝廷から長州藩と急進的攘夷派の公家を追放するクーデター「八月十八日の政変」発生、攘夷を巡る情勢が流動化した転機となった年であった。

下関を砲撃するアメリカ軍艦ワイオミング号

1858(安政5)年に列強五カ国(アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ロシア)と通商条約を締結して以降、幕府は外交交渉のために複数の使節団を海外に派遣している。1860(万延元)年にアメリカ、1861(文久元)年にフランス・イギリス・オランダ・プロシア・ロシア・ポルトガル、1864(文久3)年にフランス、1865(慶応元)年にフランス・イギリス、1866(慶応2)年にロシアと、欧訪に数カ月の船旅を要した時代にしては、かなりの頻度と言えるだろう。1867(慶応3)年にはフランスでパリ万国博覧会に出展、ナポレオン3世に謁見した後、イギリス、スイス、オランダ、ベルギー、イタリアを歴訪している。

このうち1865年の使節団は、外国奉行柴田剛中を特使として、横須賀製鉄所創設のための技師の雇い入れ、機械用具買付けの交渉を目的としてイギリス・フランスに派遣されたものだ。

右端が柴田剛中(1862年オランダにて)

ロンドンに地下鉄が開業して以降、初めての使節団となった彼らは、1865年12月21日(旧暦では慶応元年11月4日)に地下鉄に乗車している。これが記録に残る限り、日本人が地下鉄に乗車した最初の事例である。

この時のことを、使節団に随行した熊本藩士の岡田摂蔵が「航西小記」として記録に残している(国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)。岡田は福沢諭吉の元で蘭学、英学を学び、慶應義塾の二代目塾長を務めた人物であり、「航西小記」という題は福沢の「西航記」に倣ったものである。

航西小記に「平地および屋上ならびに地下ともに蒸気車、ビショプという路都合三道なり」とあることから、彼らはビショップス・ロード駅、現在のパディントン駅から乗車したのだろう。パディントン駅にはグレートウェスタン鉄道(現在のナショナルレール)の頭端式ホームが地平に、メトロポリタン鉄道のインナー・サークル線のホームが地下に、ハマースミスアンドシティ線のホームが高架にある。

岡田はメトロポリタン鉄道のことを次のように表現している(一部の漢字をカナに改め読みやすくした)。

帰途蒸気車に乗して地の下を巡る。これはロンドン府の周囲をまわりたる道なり。

地の下を巡る蒸気車、これが「地下鉄」を言い表した最初の日本人の言葉であろう。彼はメトロポリタン鉄道建設の経緯を聞き、その意義と効用を書き記している。

すでに平地および屋上に線路を設け汽車の通路となされども、人民なお往返の便利欠くところあるが故に、両三年前、地下を掘り鉄路を敷き、往返の便利となす。よってロンドン府の繁華一増したりと云う。

柴田剛中は1861年の訪欧で鉄道を体験済みだが、岡田摂蔵は蘭学、英学を学んでいたとはいえ、初の訪欧で実物の鉄道を見たのも初めてだったはずだ。

この如き洪大の普請、世界またある事無しと語る。実に人力を以てかかる工を為す、鬼神もまた驚くなるべし。

地下鉄建設という世界最先端の大事業に驚嘆しながらも、岡田は「立体交差構造の都市鉄道」という地下鉄の本質を見抜いているのである。

岡田は明治維新後は洋学の教育者として活動するが、1876年に病没している。以前乗りものニュースで、甲武鉄道(現在のJR中央線)建設にあたり、幹線道路との立体交差という都市鉄道の原則を確立したことが、後の東京の鉄道網発展の基礎になったという話を書いた。

この時、ロンドンの地下鉄道やニューヨークの高架鉄道に学ぶべきと主張した田口卯吉や原口要も幕末を生き抜いた世代である。彼らの広い視野と深い洞察が、岡田ら先人たちの積み重ねてきた土壌に花咲いたのだということを再認識させられる。

参考文献:中川浩一「地下鉄の文化史」筑摩書房

 

ところで、昭和戦前期に活躍し、後にソ連に亡命したことで知られる映画女優の岡田嘉子は岡田摂蔵の孫だそうである。