極悪!スルガ銀行の報道を見て100年前に買収された吉浜銀行のことを思い出した話

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[1903-1913]

スルガ銀行の乱脈融資というかガバナンス崩壊というか、組織の体をなしていない惨状が新聞・テレビを賑わせています。それについては「うわぁ、やべえ」以上にコメントする能力を持ち合わせていないのですが、そういえばスルガ銀行って城東電気軌道のことを調べた時にかすっていたなということを思い出したので記事にしてみました。

といいつつスルガ銀行に直接つながる話ではないので、導入部はWikipediaでさっさと済ませてしまいましょう。

スルガ銀行株式会社(スルガぎんこう、英称:Suruga Bank Ltd.)は、静岡県沼津市に本店を置き静岡県・神奈川県を主たる営業エリアとする日本の地方銀行である。実店舗は五大都市圏でも展開しており、ネットバンキングでは全国展開している。沼津市の指定金融機関。

出典:スルガ銀行

注目すべきは、静岡県と神奈川県を営業エリアとしていることです。昭和初期に地方銀行は「一県一行主義」の下に統合が進められ、その方針は平成に入るまで維持されていたのですが、スルガ銀行は創業初期からずっと2県にまたがって営業をし続けてきた数少ない「例外」で、これは同社の「会社沿革」でも独自性を示すエピソードとして誇らしげに書かれています。

今回の不祥事により引責辞任した会長の岡野光喜氏は創業家出身です(2016年に同じく辞任した米山氏に社長の座を譲りますが、なんと彼は創業以来初めての創業家出身者以外の社長でした)。岡野光喜氏の曽祖父にあたる岡野喜太郎が根方銀行を設立したのが1895年、翌年には駿東実業銀行に改称して駿東地域(現在の沼津市、御殿場市など)に事業エリアを広げます。更に伊豆、神奈川へと店舗拡大を続けたことで、1912年により大きな地域名を冠した「駿河銀行」に改称したという歴史があります。

ここから立て続けに他行を合併する拡大戦略が始まるのですが、その第一弾が神奈川県足柄下郡吉浜村にあった「吉浜銀行」でした。

スルガ銀行webサイト「会社沿革」より吉浜銀行は、1898年9月8日に神奈川県足柄下郡吉浜村に資本金10万円をもって設立されました。足柄下郡(現在の箱根町・真鶴町・湯河原町)唯一の銀行として、小田原支店と湯ケ原出張所を営業していましたが、1913年に駿河銀行に合併され、小田原支店は駿河銀行小田原支店になります(スルガ銀行サイトには1912年とありますが、これは合併契約締結の年なのかな? 営業譲渡は1913年3月です)。つまり、吉浜銀行を足掛かりに小田原進出を目論んだわけです。

はい。ここでスルガ銀行の話は終わりです。本題は、スルガ銀行の名前を聞いて思い出した吉浜銀行なのです。

吉浜銀行の名前は、京成電気軌道社長本多貞次郎が城東電気軌道と並行して進めていた江東電気軌道について調べていた時に、1911年の出願時の発起人の中に吉浜銀行関係者がいたことで知りました。

(江東電気軌道についてはこちらの記事参照)

【城東電気軌道百年史特別企画 第1回】京成が市内進出の夢を託した或る未成線のはなし

発起人の名は酒井泰、肩書は吉浜銀行専務取締役、千住鉄道取締役、東京市会議員。千住鉄道とは東武鉄道と免許を争った未成線で、。名前で検索すると1921年に東京市の疑獄事件で金を受け取っていたとかが出てくる人物です。

住所は東京市京橋区とあり吉浜銀行の事業エリアの人間ではなさそうなので、市会議員の政治力を見込まれて外部招聘された人なのでしょうが、後に疑獄事件に連座する人間ですから黒い関係の気配を感じざるを得ません。酒井が江東電気軌道発起人に名を連ねた翌年に、吉浜銀行は身売りが決まるわけで、経営は末期的状況だったのかもしれません。

ところがこの吉浜銀行、既存の業務全てを駿河銀行に譲渡したにもかかわらず、消滅しませんでした。東京に拠点を移して日東銀行と改称して再出発を図ることになりますが、1年もたたずに経営者が交代して再度改称し、第五銀行を名乗ります。

ここで登場する新たなキーパーソンが、千葉胤義時代の城東電気軌道計画に深く関与する橋本梅太郎なのです。彼については城東電気軌道百年史でも詳述したので、そのまま引用しましょう。

橋本梅太郎と浅野財閥

橋本梅太郎は福岡県藩士橋本徳来の長男として、1874(明治7)年に生まれた。福岡中学を卒業後、1893(明治26)年アメリカに留学し、ジョージタウン大学で政治・経済を専攻し米法学士を取得。1903(明治36)年帰国して実業家となる。橋本は1913(大正2年)に、後に「浅野昼夜銀行」と改称して浅野財閥の機関銀行になる第五銀行の専務取締役に就任している。安田財閥の社史『安田保善社とその関係事業史』はその経緯を次のように記している。

 同行(第五銀行:引用者注)は鶴見総持寺の機関銀行といわれるが、業績が上がらなかったため、同行の専務取締役橋本梅太郎は知己の初代浅野総一郎に経営援助を求め、四年四月浅野の役員就任によって同行と浅野との関係は次第に密接になった。

財閥経営史を研究する齊藤憲は、両者の関係について更に踏み込んで指摘している。

『当行沿革(日本昼夜銀行発行の冊子:引用者注)』には「橋本氏ハ東洋汽船二在テ活動シタル結果、浅野家二取入り、遂二同家ヲ当行二引入レ」た、とあるから、橋本梅太郎の画策によって浅野財閥の関連ができたと考えられる。橋本は後に浅野物産副社長や同社の子会社日本舗道の取締役を兼任する人物であるが、その経歴はつまびらかではない。明治四十一年業績不振の責任をとって東洋汽船社長を罷免されそうになった浅野総一郎を、「踏み留まって責めを果たして貰わなければならぬ」と株主総会で発言して社長に留任させ、恩を売った人物である。
橋本が入行したのは大正二(一九一三年)五月六日、浅野総一郎の長男泰治郎が、浅野一族として最初に取締役に就任したのが同年六月二七日のことであるから、当初から浅野の経営を前提に橋本は入行したとも考えられる。

橋本梅太郎は城東電気軌道に参加する1912年(明治45)の段階で、既に浅野財閥と極めて深い関係を持っていた。

橋本梅太郎を介して、第五銀行は浅野系の機関銀行へとその性質を変えていき、1918年3月に「浅野昼夜銀行」に改組します。もっとも浅野財閥の銀行経営はうまくいかず、関係の深い安田財閥が経営する安田銀行に吸収され、戦後は富士銀行として出発し、2002年に統合され、みずほ銀行となります。

下足柄唯一の地方銀行であった吉浜銀行の系譜は、ひとつは「地方銀行の優良児」ともてはやされた末に大爆死したスルガ銀行に、そしてもうひとつはメガバンクみずほ銀行につながっていくわけです。

そして吉浜銀行は、本多貞次郎の江東電気軌道と一回目の、後身の第五銀行は本多貞次郎の去った城東電気軌道と二回目の、不思議な運命の交差をしているわけです。これが偶然なのか、あるいは必然なのかは分かりませんが、なんとも面白い話です。

同人誌「城東電気軌道百年史」紹介ページ