【震災95周年企画】関東大震災は交通機関の運命も色々変えた話

帝都復興展覧会出品模型「第一号幹線昭和通り」
[1914-1926]都市交通のめばえ

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の大地震が関東地方南部を襲った。

この地震により、死者・行方不明10万人以上、全焼38万世帯、被災者は約340万人、損害額は推定約55億円にのぼった(東京市役所編『東京震災録 前輯』による)。1922年度の一般会計予算が約14億7000万円だから、現在の貨幣価値に換算すると300兆円以上にもなる、文字通り国家存亡の危機と言える大災害であった。

日本橋付近の被害の様子(出典:関東戒厳司令部『大正震災写真集』)

この地震による被害は、地震動による破壊もさることながら、火災による部分が非常に大きかった。折しも日本海に台風が停滞していた影響で風速10m/s以上の強風が吹き荒れていたこと、ちょうど昼食時間帯で調理のために火を使っていた家庭が多かったことなど、いくつもの悪条件が重なり、市内各地で発生した火災は瞬く間に燃え広がって東京市の面積の4割以上を焼き尽くした。実際、当時の文献には「関東大震火災」と記されていることが多い。

赤い部分が焼失範囲。下町は文字通り灰燼に帰した。

この火災により、鉄道施設も大打撃を受けた。市内では日本鉄道発祥の地である旧新橋駅駅舎、東北線のターミナル上野駅、中央線のターミナル万世橋駅が全焼した。東京市電も下町の路線全域で壊滅的な被害を受けている。

さて、今回のテーマは地震や火災による被害そのものではなく、関東大震災がもたらした東京の鉄道の「変化」だ。より具体的にいえば復興計画と鉄道の関係であるが、実際に影響が及ぶ範囲は復興そのものよりもはるかに大きいとも言えるだろう。

山手線環状化

先ほどの路線図をよく見てもらえば分かるように、関東大震災の時点では山手線の上野~神田間と、総武線の御茶ノ水~両国間が繋がっていない。

このブログでもたびたび言及しているように、明治時代に築かれた鉄道幹線網は、江戸以来の市街地を避けて周辺部にターミナルを置いて開業した。1914年に中央停車場として東京駅が開業、1919年に中央線が東京駅に乗り入れるなど、長い時間をかけて都心部に高架線を建設していったが、未だ完成には至っていなかった。

この完成を促したのは関東大震災の復興計画だった。焼失地域の復興計画で区画整理を実施して鉄道用地を確保すると、1925年に上野~神田間が開通して山手線の環状運転が始まった。また1932年に総武線の御茶ノ水~両国間が開業して中央線各駅停車との直通運転が始まった。今の路線図の骨格は概ねこの頃に完成したと言えるだろう。

またこの時、新たに線路を建設する用地だけでなく将来増線するためのスペースも確保したことが、戦後に輸送力増強を可能とする下地になったことも忘れてはならない。

日本初の地下鉄が「上野~浅草間」になったワケ

1923年9月1日、横浜港。正午出港予定のアメリカ行きの旅客船プレジデント・ウィルソン号の船内に一人の男がいた。彼の名前はジョン・W・ドーチー。アメリカの投資ファンド会社の社長だった。彼は、東京に地下鉄を建設せんとする東京地下鉄道の計画は、東洋で最も要望な事業と見込み、建設資金として2000万円を融資することに合意。大型案件を手土産に帰国の途につくところであった。

そこに襲ったのが関東地震であった。帰国を延期したドーチー氏は東京横浜の被害状況を視察して驚愕し、東京の復興がなされない限り投資は考えられないとして、融資の案件を白紙に戻すことに決めた。

東京地下鉄道が設立されたのは1920年。当初、第一期線として新橋~上野間を一気に着工する予定だったが、同年に発生した第一次世界大戦の戦後恐慌により経済状況が暗転し、見込んでいた資金が集まらなくなった。そこで一縷の望みをかけて交渉を続けていたのが外貨導入であったが、これも関東大震災により挫折する。

やむなく東京地下鉄道は新橋~上野間の建設を断念し、どうにか資金調達に成功した1000万円を元手に、上野~浅草間を先行開業させることにした。ターミナル駅上野から東京一の盛り場であった浅草へ、デモンストレーション的な観光鉄道として、まずは地下鉄そのものを売り込むことにしたのである。

もし関東大震災がなければ、日本の地下鉄はアメリカ外資の影響のもと、一気に建設が進んでいた可能性がある。

一方で地下鉄がその着工の寸前に関東地震を経験したことは、その後の耐震設計に大きな影響を与えた。日本の地下鉄は全て関東大震災に耐えられることを前提に設計されている(無論、阪神大震災の教訓など最新の知見は都度取り入れ、補強も行われている)。

帝都復興と地下鉄計画

地震と火災によって壊滅した東京は、莫大な予算を投入して復興計画を進めることになった。日本初の地下鉄が上野~浅草間に開業するのは1927年、つまり関東大震災から4年後のことだが、建設に向けた議論は1917年頃から始まっており、1919年には将来の地下鉄整備計画が立案されている。

それが東京ごとガラガラポンになったので、地下鉄整備は復興計画とあわせて考え直すことになった。1枚目が1919年の計画、2枚目が1925年の計画。まるっきり変わっている。

 

地下鉄といっても、土の中であればどこでも自由に使えるわけではない。なにより当時の日本では、地上から掘り下げてトンネルを作って埋め戻すオープンカット工法しか選択肢がなかったので、必然的に道路の下にトンネルをつくることになる。

江戸時代の町割りを引きずっていた東京では、この道路整備が遅れていたため、復興計画で様々な道路が整備された。下の地図は上野付近の震災前と震災後の比較だが、昭和通りをはじめとして、太い道路がいくつも増えていることが分かるだろう。

今昔MAP on the web (c)谷謙二

道路計画が変われば地下鉄計画も変わる。そういった意味でも現代の地下鉄の始祖は、1925年の震災復興計画に基づく地下鉄網計画である。

バス時代の始まり

東京市内に初めて路線バスが走り始めたのは1918年のことだった。長らく路上交通のほとんどは市営電車(路面電車)が担っていたが、大正時代に入ると自動車の進出が徐々に始まっていた。

そこに関東大震災が発生し、市電は軌道、車両、車庫、電気設備に甚大な被害を受けた。電車は車両単体では動くことができないが、自動車であれば道さえ開通すれば走ることができる。東京市は路面電車が復旧するまでの応急措置として、市営バスの運行を開始した。

T型フォードのトラックシャーシに仮設の車体を乗せた「市バス」

渋谷~東京、巣鴨~東京の2路線から始まった市バスは、好評につき市電復旧後も運行を継続することになり、復興計画により道路の整備が進んだこともあって利便性、速達性がさらに向上。路面電車を脅かす存在にまで成長する。

この台紙は日付が間違っている。正しくは1924年1月18日から運行開始。