【3日目東S15b 第2版発行記念】城東電気軌道百年史の紹介(5)

[1914-1926]

2018年8月のコミックマーケットにて「城東電気軌道百年史 第2版」を発行するにあたり、より多くの方に手に取っていただけるよう、内容の前半をまとめたサマリー版を用意した。なお、本稿は「百年史」の論旨を紹介するために書下ろしたものであり、本書では予備知識の無い方でも分かりやすいように、登場人物や時代ごとの背景についても図表をふんだんに用い、逐次注を添えて丁寧に解説してある。本稿の内容に少しでも興味を持っていただけたら、是非手に取っていただければ幸いだ。

コミックマーケット94(2018年8月12日)日曜日 東S15b「Happiness Factory」にて頒布(1500円)
※サークルカットで予告していた新刊は出せませんでした。すみません。代わりに「新橋駅幻のホーム」に関する70ページくらいの冊子を制作中です。

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5.城東電気軌道の経営再建と城東への回帰

城東電気軌道の新社長に就任した尾高次郎は渋沢栄一の縁戚にあたる人物で,渋沢系の様々な企業に参画した専門経営者である。尾高の経営する東洋生命保険や武州銀行は,城東電気軌道の筆頭株主として,一貫して資金を供給し続けた。尾高らの尽力によってようやく事業として成立することになった城東電気軌道は,以降渋沢財閥系統の企業となっていく。

5-1.城東への重心移動―砂町支線計画

資金的な裏付けを欠いたまま事業拡張を進めた実業家千葉胤義に対して,尾高次郎は自ら資金調達するとともに,事業を適正な規模に収めるべく整理に取り掛かった。多額の橋梁建設費を要する荒川・中川への架橋を避けるため放水路以東の着工を見送って特許線のうち錦糸堀・小松川間を先行開業させる方針を示すと,千葉体制下で30万円から100万円に膨張した資本金を60万円に減資することで未払込株を整理して経営を立て直し,同区間を1917(大正6)年12月30日に開業させたのである。

計画縮小によりどうにか開業にこぎつけた城東電気軌道であるが,「同区間ハ単距離ノ為メ収支償ハス従テ経営困難」であり路線延伸を実現しない限り経営の安定化は望みようがなかった。しかしながら延長線に着手するとしても,荒川放水路の横断問題が解決しない限り既開業区間と線路はつながらず乗客の増加は見込めない。一方で開業によって明らかになったのは「砂村大島ヨリノ乗客最モ多数」ということだった。同地区は「工場ノ新設人口ノ増加等ニ因リ発展ト同時ニ交通機関ノ不備不便」で「一日モ速ク当会社ノ電車開通ヲ期待」されているとして,尾高は特許を取得済の本線残区間・延長線を後回しにして新たな路線の建設方針を決定する。1918(大正7)年1月31日に本線水神森から分岐し大島町を経て砂村新田に至る延長1マイル60チェーンの「砂村支線」の敷設特許を出願した。

同年6月27日に特許が下りると,1919(大正8)年9月13日に臨時株主総会を開催し,砂村支線敷設のため資本金を60万円から150万円へ90万円増資することを可決した。城東電気軌道は減資を乗り越えて,再び事業拡張の方向へ足を踏み出していくのである。

5-2.千葉県進出の断念―第1延長線計画の取下げ

尾高は延長線計画の整理にも乗り出している。第1延長線(上今井・浦安間)は1915(大正4)年11月5日に特許されたが,工事施行認可申請期限を2度延期するも進展は見られず,鉄道院から計画の見直しを求められていた。

1918(大正7)年10月7日に「時局ノ影響ニヨリ材料ハ未曽有ノ暴騰ヲ来シ猶益々騰貴ノ傾向ナルニ由リ資金調達上如何ナル変動ヲ生ズ」るか見通しが立たず,さらなる延期を申請することになっては「徒ニ御手数ヲ煩シ誠ニ以テ恐縮」であるから「浦安線建設ノ特許権ハ右御内示ニ基キ茲ニ返上」したい旨の請願書を提出した。「当会社ノ基礎強固ト相成リ浦安線敷設ノ実力備ワリタル場合ハ他ニ優先シテ特許」と続いており,将来的な再挑戦を匂わせる内容となっているが,その後千葉方面への軌道延伸計画が再び立てられることはなかった。

荒川放水路以東の着工を凍結し江戸川以東の延長線構想を取下げた城東電気軌道が,これ以降に計画した路線は全て荒川放水路以西のものである。すなわち延長線計画の取下げは江戸川・千葉方面での事業拡張を断念し,城東区域に経営資源を集中していく姿勢を示すものだったのではないだろうか。

5-3.渋沢系資本による城東地域インフラ整備

尾高次郎は城東地区の運河建設にも関係している。現在は江東区民の憩いの場として親しまれている仙台堀川親水公園は,深川・城東地区の工業化が砂町に波及していくのを見越して,船舶水運の便を開くために計画された砂町運河であった。尾高はその中心人物であった。

【城東電気軌道百年史特別企画 第3回】尾高次郎と運河と電車―仙台堀川親水公園小史

東京運河土地は運河の建設と運営による通行料収入の他,運河周辺の土地開発と分譲・賃貸を定款に掲げていた。城東電気軌道砂町支線の建設や東京運河土地による砂町運河建設により,明治中期から渋沢系企業が多く展開していた深川・亀戸・大島地区から,砂町方面へ開拓していくことが尾高ら渋沢グループの狙いであった。東京運河土地の第2回営業報告書には「城東電気軌道ノ延線決定,官有鉄道予定線(越中島貨物線)ノ工事進捗,上水道布設確定,荒川改修余剰土砂ノ給与等特殊ノ事情続出セルヲ以テ,依然地価高騰ノ気勢」と,一帯のインフラ整備が急速に進む状況が記されている。

尾高が社長に就任して以降の城東電気軌道は,沿線の渋沢系企業の利便性確保と,城東地域の開発を先導する役割を,1937(昭和12)年の会社解散まで一貫して担うこととなるのであった。

主要参考文献

三科仁伸(2018)「戦前期東京における電気鉄道の設立と展開 ―城東電気軌道・王子電気軌道を事例として―」『史学』87(3), 三田史学会
西野寿章(2014)「東京の電気事業と電源開発」『地学雑誌』123(2), p.298-314.
石井里枝(2009)「戦前日本における地方企業の経営と企業統治 ―利根発電を事例として―」『経営史学』44(2), 経営史学会
天野宏司(2007)「高圧送電網の形成と空間編成」『近代日本の地域形成―歴史地理学からのアプローチ』