【城東電気軌道百年史】あらすじの紹介(4)千葉胤義の時代 下

[1914-1926]都市交通のめばえ

2018年8月のコミックマーケットにて「城東電気軌道百年史 第2版」を発行するにあたり、より多くの方に手に取っていただけるよう、内容の前半をまとめたサマリー版を用意した。なお、本稿は「百年史」の論旨を紹介するために書下ろしたものであり、本書では予備知識の無い方でも分かりやすいように、登場人物や時代ごとの背景についても図表をふんだんに用い、逐次注を添えて丁寧に解説してある。本稿の内容に少しでも興味を持っていただけたら、是非手に取っていただければ幸いだ。

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4.江戸川電気の水力電気需給構想

しかしながら江戸川電気はこれだけ大きな計画を受け止められる発電設備を有していなかった。前述のように出願時点の江戸川電気の計画出力は75キロワットで,城東電気軌道に供給予定の800キロワットの10分の1にも満たないのである。

4-1.水主火従時代の到来と配電事業の隆盛

利根発電は大規模水力発電所で発電した電気を,関東の電灯会社に電力を卸売することで成長を遂げた電力企業のひとつである。こうした事業者が伸長した背景には,この頃日本の電力事業に訪れた大きな変化があった。

それまでの電力会社は未熟な送電技術のために,需要地内部もしくは近接した地点に発電所を建設せざるを得ない制約があったが,1908(明治41)年に東京電燈が駒橋発電所・早稲田変電所間の長距離高圧送電に成功したことに代表される送電技術の進展により,供給域に近接する小規模な自前の発電所の電力のみを以て電力供給をする業態から,他社から電力の融通を受け配電を行う業態への移行が可能になった。

1912(大正元)年には水力発電の出力(23万3000キロワット)が火力発電の出力(22万9000キロワット)を超えて「水主火従」時代が到来するに至り,自前の火力・瓦斯力発電所を所有する小規模電灯会社は電力調達方法の再考を迫られ,効率の悪い自社発電所を廃止し,水力発電事業者からの買電に切り替える事業者が増えていくのである。東京近郊で電灯事業を兼営した王子電気軌道,玉川電気鉄道,京成電気軌道などの電鉄会社も,創業当初こそ自社発電した電気で電車事業と電灯事業を行っていたが,明治末から大正にかけて大規模水力発電所からの受電に切り替えている。発電コストの低下と供給量の増大により,事業が軌道に乗るのはそれ以降のことだ。

千葉胤義が電力の調達先として期待していたのが,この利根発電だった。江戸川電気が利根発電から安価で大量の電力を購入し,その電力を城東電気軌道や江戸川電気軌道に供給するビジネススキームを企てたのである。江戸川電気は,1914(大正3)年4月に逓信省に「利根発電から受電して事業を展開したい旨を申請した。

ところがそれから半年後の同年10月19日に,江戸川電気は利根発電から「電力供給契約期日ニ供給難相成」と通知があったとして,「申請書取下願」を提出し,この構想はとん挫することになった。

4-2.千葉胤義構想の挫折

千葉胤義の構想が潰えた理由はいくつかある。大きくは資金不足である。

雑誌『ダイヤモンド』1914(大正3)年4月号の「内端の苦しい城東軌道」と題された記事には,記者が1年前に取材した際に「近く用地の買収が済む筈だから,それが済み次第起工し,来年一月頃には幾部分かの開通をさせたい」と聞いていたのに,一向に開業する気配がないので調べてみると「仄かに聞けば第一回の払込も,甚だ面白くない成績で,それ丈けでは到底起工し得ない」ので,有楽町の城東電気軌道事務所では「社員が閑殺されそうな顔をして,毎日火鉢を囲んで雑談に耽って」いる有様だと書かれている。

また1915(大正4)年1月に読売新聞で連載された特集記事では,城東電気軌道を「城東電軌は出来立てのほやほやにて未だ工事にもとりかからず,工事費の問題にて行なやめる電気鉄道」として取り上げている。路線の立地について「将来本所深川が郡部に発展して,中川あたりまでも市街拡張ともならば面白」いと将来性は評価しつつも,現状においては「選びも選びて無理な処に電車をかけんとするなり」と手厳しく,さらに「附近は下級労働者多く,電車にて往来する人は甚だ少」いと事業性にも疑問を呈しており,「あまり無理して先輩諸電車の轍をふみ,面倒に立至るよりは,今暫くあせらぬが」よいと締めくくっているが,これが投資対象としての当時の評価そのものだったのだろう。

さらに1914(大正3)年8月に勃発した第一次世界大戦が追い打ちをかけた。当時は鉄道用電気機器類の多くを輸入品に頼っていたことから,ヨーロッパからの輸入が途絶えたことは事業進捗に大きな影響を及ぼした。1915(大正4)年7月15日に提出された電気事業開始期間伸長認可申請には「海外ニ注文シタル材料ハ時局ノ影響ヲ蒙リ予定ノ如ク到達仕ラザル次第」と記されている。また軍需の影響で鉄などの資源が不足し,物価はそれまで例を見ないほどに高騰した。

元々資金不足に苦しんでいた城東電気軌道にとって,物価の高騰は大きな打撃になったようで,1916(大正5)年9月1日に提出された工事施行認可申請期日延期願には「欧州戦乱ノ影響ヲ蒙リ工事材料価格騰貴シタル結果右延長特許線並目下工事中ニ属スル特許線工事費ハ何レモ当初ノ予算ニテハ不足」しているという窮状が記されている。

こうして城東電気軌道は八方塞がりとなり,1915(大正4)年3月19日に創立以来社長を務めてきた廣澤金次郎が辞任すると,同年12月6日の臨時株主総会で千葉胤義も解任された。新たに尾高次郎,大川平三郎,植村澄三郎,大倉發身の4氏を取締役に,石川甚作を監査役に迎え,城東電気軌道は再出発を図ることになった。

つづく