いつかの海芝浦物語―あるいは、繁藤災害に立ち会った元自衛官の半生

[1995-2011]テロと災害の時代

鶴見線のことを考えていたら、ふと9年前の出来事を思い出した。

2009年10月のある日、僕は突然「国道駅」が見たくなって、初めて鶴見線に乗りに行ったのだ。国道駅はうわさに聞いていた通りのすごい場所だった。

まず名前がすごい。なんといっても「国道駅」だ。京急大師線の「産業道路駅」に匹敵する名前だが、あちらは固有名詞だがこちらは一般名詞。駅前に国道15号線、かつての国道1号線が走っているからといっても余りに大胆なネーミングである。

駅の外壁にはネットがかけられている。窓は割れ、コンクリートは剥離しており、まるで廃墟のようだ。所々えぐれているのは戦時中に米軍の戦闘機から機銃掃射を受けた跡である。

鶴見線は全駅が無人駅なので係員は誰もいない。それも最近無人化されたのではなく、昭和40年代から無人だった。昭和のまま時間が止まった駅構内に、自動券売機と簡易Suicaタッチ端末があるのがミスマッチでおかしい。

高架下にある住宅(エキナカ住居!)の土地使用票には「昭和82年」と書いてあったので、本当に昭和のまま止まっているんだろう。もっとも昭和82年は2008年のはずだから、2009年に訪れた時点でとっくに過ぎてしまっているのだけど。

せっかくだから行き止まりまで行ってみようと思って海芝浦行きに乗ってみた。

海芝浦駅というのは東芝の敷地内に設けられた駅で、社員しか改札を通って外に出ることができない世にも珍しい駅である。また駅名の通りホームのすぐ脇まで海が迫っており、これまた不思議な光景を作りだしている。

駅の中には東芝の計らいで「海芝公園」が設置されているのだが、この時は直前に襲来した台風の影響で地面が陥没したため閉鎖されていた。残念。

が、ここまでは全部余談である。

僕がふと思い出したのは、海芝浦駅で出会った陽気なおっちゃんのことだ。歳は五十を過ぎたあたりだろうか。一通り写真を撮り終わって暇を持て余していたところに声をかけられ、折り返し電車が発車するまで世間話で盛り上がったのである。

おっちゃんは30年ぶりに海芝浦駅を訪れたそうだ。

親子連れ、カップル、そして鉄道マニアらしき人々がカメラを構える姿を見つめながら、懐かしいねと微笑んだ。海芝浦なんかに来る人間は、東芝の社員の他は鉄道ファンしかいないに決まっている。

駅の隣をタグボートに曳かれて大型タンカーが行く。

「船旅はいいね、船で出かけるといいよ」とおっちゃんはつぶやいた。

有明港から徳島経由北九州行きのフェリーがあるらしい。僕も大昔に乗った有明~釧路航路を思い出して同意した。あのゆったりとした退屈な時間こそが現代に残った最後の「旅」なのかもしれない。

DSC_0210-1.jpg

オーシャン東九フェリーは2016年に新型フェリーを導入したらしい

「九州出身でね。たまにはフェリーに乗っていくんだよ」

「今日は鶴見線に乗りに九州から来たんですか?」

僕は30年ぶりだというさっきの言葉が気にかかっていた。おっちゃんはそこで素性を明かした。

「いや、クレーンの運転手をやってて、今はこっちで仕事してるんだよ。第二東京タワーの建設工事でね」

第二東京タワー!

2008年には「スカイツリー」という立派な名称が決まっていたはずだが、職人にはそんなことはどうでもいいのだろう。

その頃まだスカイツリーは芽を出して伸び始めたばかりで、どんなものになるのか実感もなかったが、あの世界一のタワーを作っていると聞かされると興味がわいてきた。

「精神力を使う仕事だから、休みの日はこうやってゆっくりしないとやってられないんだよ」

そしておっちゃんは30年ほど前、正確には27年前に鶴見線を乗りに来た時の話をはじめた。

「黄色い電車の101系もなくなっちゃったんだな。大川支線の茶色い旧国電はまだ走ってるの?」

10年以上前に引退したと告げると少し寂しそうな顔をした。

おっちゃんは久留米の出身で、18の時に自衛隊に入隊したそうだ。

その翌年、四国で土砂崩れが発生し、列車と下の道路の車が押しつぶされる事故が発生。災害派遣を命じられた。押しつぶされた犠牲者の“救助活動”は凄惨そのものだったという。

9年前に聞いたときは「それは大変でしたね」と話をあわせるだけだったが、今回そういえばどの事故だったのだろうと気になり調べてみた。

列車が土砂崩れに巻き込まれ、自衛隊が災害派遣された水害というと、1972(昭和47)年に高知県で発生した「繁藤災害」で間違いないだろう。60名の死者を出す大惨事だったようだ。

繁藤災害(昭和47年7月豪雨)

繁藤災害(しげとうさいがい)は、高知県香美郡土佐山田町(現・香美市土佐山田町)繁藤の繁藤駅周辺で、1972年(昭和47年)7月5日に発生した土砂災害である。

概要

1972年(昭和47年)7月4日から5日にかけて、暖かく湿った空気が舌状に大量に流れ込むことで大雨をもたらし“姿なき台風”とも呼ばれる「湿舌」が四国山地にぶつかったことにより、土佐山田町繁藤では1時間降雨量95.5mm(5日6時)、24時間の降雨量が742mm(4日9時〜5日9時)という激しい集中豪雨に見舞われた。平年の3ヶ月分という大量の雨が一気に降った影響で地盤が緩み、至る所で小規模な土砂崩壊が発生していた。

降り始めからの雨量が600mm近くに達した5日午前6時45分、繁藤駅前にそびえる追廻山(550m)の駅付近の山腹が高さ20m・幅10mにわたって小崩壊し、人家の裏で流出していた土砂を除去していた消防団員1名が崩れ落ちてきた土砂200m³に埋もれて行方不明となった。早速、町職員や消防関係者が招集され、約120名が降りしきる雨の中、重機を使用した捜索活動が行われた。

前日からの激しい雨はさらに降り続き、降り始めからの雨量が780mmに達した午前10時50分頃、小崩壊を起こした山腹が、いくつかの雷が一度に落ちたような大きな音と共に幅170m、長さ150m、高さ80mにわたって大崩壊を起こし、10万m³もの大量の土砂が駅周辺の民家のほか、駅および駅構内3番線に停車中だった高知発高松行き224列車(機関車DF50 45号機牽引、客車4両)を直撃した。

突如発生した大崩壊による土石流は、家屋12棟や機関車1両と客車1両を一気に飲み込み、現場付近で救助活動を行っていた町職員や消防団員、その活動を見守っていた周辺住民や列車の乗務員、乗客らを巻き込んだ後、駅背後を流れる20m下の穴内川まで流れ落ち川を埋め尽くした。中でも機関車は川の対岸まで飛ばされるほどに土砂に押し流され、1両目の客車が機関車の上に乗りかかるように埋没、2両目が崩れ残った路盤に宙吊りとなり、辛うじて3両目と4両目の客車が被災を免れた。

被害

自衛隊や機動隊、消防等関係者ら1,300人体制による捜索・救出活動(および遺体収容作業)は約1ヶ月間続き、延べ約2万人が従事したが、最終的に死者60名(大崩壊による死者は59名)、負傷者8名、家屋全壊10棟、半壊3棟の被害を出すに至った。駅構内の半分を土砂に飲み込まれたほか、一部の路盤を失って不通となった国鉄土讃本線(現・四国旅客鉄道(JR四国)土讃線)は、復旧までに23日を要している。

出典:wikipedia

平時であれ、自衛隊という仕事は様々なつらい場面に直面してしまうのだろう。仕事の傍ら、何か夢があることをしないと心が持たないと思っていた彼の目に留まったのが、国鉄2万キロチャレンジ(いい旅チャレンジ20,000km)のポスターだったという。

そういえば子どもの頃から鉄道が好きだったなと思い出し、全国を回り始める。そして、28歳の時に2万キロを達成したそうだ。

これも当時は「すごいですねー」と聞くばかりだったが、改めて考えてみると1972年の繁藤災害の時に19歳だったなら、このキャンペーンが始まった1980年には27歳だから、1年で全線を踏破したことになる。本当にすごい。

いい旅チャレンジ20,000km

イメージ 1

写真出典:本宮ステン所

いい旅チャレンジ20,000kmは、1980年(昭和55年)3月15日から10年間行なわれた日本国有鉄道(国鉄)のキャンペーンである。

開始から5ヶ月後の8月に、キャンペーンによる最初の完乗者(キャンペーンでは「完全踏破者」)が出現し、1980年だけで12人が完乗した。主催者側は「10年間で5人も成功すれば」とみていたが、最終的な完乗達成者は約1500人に達した。

出典:wikipedia

その後、人の役に立つ仕事がしたいと思い、自衛隊時代に取得した資格を生かして建設現場の仕事に携わり、今に至るという。

100メートル先の鋼材を吊るして巨大タワーを組み立てる、誰も経験したことのない634メートルのタワー建設である。スカイツリーの頂上には四機のクレーンが立っていて、風と、雨と、雷と、そして工期との戦いだと言っていた。

そんな話をしながら、海芝浦、浅野、浜川崎まで行動をともにして、そして鶴見駅で別れた。

それからしばらくして、会社の窓からも工事のクレーンが見えるようになり、日に日にその背が伸びていった。気が付いたらスカイツリーは完成していて、日常の風景に溶け込んでいた。僕はおっちゃんのこともすっかり忘れていた。

そういえば「来年で大人の休日倶楽部ミドルに入会できるんだ」とニコニコしていた。あれから9年が経ち、仕事の第一線から退いて2度目の乗り潰しでもしているだろうか。

僕もあと18年したら、もう一度海芝浦に行ってみようと思う。