【3日目東S15b 第2版発行記念】城東電気軌道百年史の紹介(1)

[1903-1913]

1.はじめに

江東区の亀戸から砂にかけて綿々と続く緑道は、1972年までここを路面電車が走っていた名残である。最終的には都電として廃止されたこの電車は、元をたどれば1917年12月に開業した私鉄の路線だった。その名を「城東電気軌道」という。

 

城東電気軌道は大正期から戦前期にかけて東京の城東地区を中心に営業した民営の電気軌道会社である。1917(大正6)年12月30日に開業した錦糸町・小松川間に始まり,砂町や洲崎,荒川放水路対岸の東小松川から今井までの区間に路線を開業するが,昭和期の経済不況とバス・タクシーの進出による競争激化により1937(昭和12)年に東京乗合自動車と合併して解散した。

同社の営業路線は最終的に,陸上交通事業調整法に基づく交通調整によって東京市営電車の路線網に組み込まれ,戦後も都電の一部として営業を続けるが,1972(昭和47)年までに全区間が廃止されている。そうした経緯もあって,城東電気軌道及び同社線に関する記録は事業を継承した交通事業者の社史や,沿線自治体の地域史に断片的な記述があるのみで,2017(平成29)年末に節目となる開業100周年を迎えたにもかかわらず通史は存在していなかった。

筆者は忘れられた城東電気軌道の記録を辿ろうと独自に調査を始め、2017年12月のコミックマーケットで「城東電気軌道百年史」を発行した。ありがたいことに400冊以上お買い求めいただき、都立中央図書館や江東区の各図書館にも収蔵していただいた。

今回、2018年8月のコミックマーケットにて「第2版」を発行するにあたり、より多くの方に手に取っていただけるよう、内容の前半をまとめたサマリー版を用意することとした。なお、本稿は「百年史」の論旨を紹介するために書下ろしたものであり、本書では予備知識の無い方でも分かりやすいように、登場人物や時代ごとの背景についても図表をふんだんに用い、逐次注を添えて丁寧に解説してある。本稿の内容に少しでも興味を持っていただけたら、是非手に取っていただければ幸いだ。

コミックマーケット94(2018年8月12日)日曜日 東S15b「Happiness Factory」にて頒布(1500円)
※サークルカットで予告していた新刊は出せませんでした。すみません。既刊のみの参加です。

2.本多貞次郎の路線構想

城東電気軌道は1910(明治43)年5月6日,軌道条例に基づいて出願され,1911(明治44)年3月7日に特許状と命令書が下付されている。発起人は地元の有力者・資産家を中心とした24名で,唯一沿線外から参加しているのが総代の本多貞次郎である。本多は京成電気軌道の創業者でもあり,この時点で同社の事実上の代表職である専務取締役を務めていた。まず,城東電気軌道出願時の主導者である本多貞次郎が,京成電気軌道との関係を念頭に構築した路線構想について見ていきたい。

2-1.城東電気軌道の出願に京成電気軌道が果たした役割

城東電気軌道が地元主導の計画であったことは,本多を除く発起人が全て地元沿線在住者によって構成されていることからもうかがえる。その中には亀戸町長鶴岡英文,小松川村長川野濱吉,瑞穂村長大塚喜一郎など地域の有力者も含まれている。

1890年代末になると,深川地区を中心とした官営工場の建設に始まった江東地区の工業化は,それまで農村地域だった城東地区にも広がっていったが,鉄道は地域の北端を東西に走る総武線と,亀戸から北へ向かう東武鉄道亀戸線があるだけで,路面電車も深川地区までは開業していたものの,依然として城東・江戸川地区には到達していなかったことから,地元有力者たちは地域の足となる近代的交通手段を求めたのである。

しかしながら地元沿線の発起人の職業を見る限り,電気鉄道の敷設はおろか大規模な会社経営に携わったことのある人物すら見受けられず、電気軌道敷設特許の出願には専門的知識を持った技術者や事務員の手によって作成される申請書類が必要であることから,こうしたノウハウを持つ本多貞次郎を招聘したものと考えられる。

城東電気軌道の創立事務所は京成電気軌道本社内に置かれていたことや,城東電気軌道の出願時定款案と,京成電気軌道の原始定款が,資本金や発行株式数など固有の数値を除いて,全ての章立てと条文で一致していることからも,こうした作業が本多貞次郎並びに京成電気軌道社員の手によって行われたことを示している。

2-2.江東電気軌道の出願とネットワーク的位置づけ

次いで本多が設立したのが江東電気軌道である。

江東電気軌道は,浅草で活動写真(映画)を興行する日本興行株式会社常務取締役の池田薫を発起人総代として1911(明治44)年11月に出願された,隅田村字三才(現在の東武鉄道堀切駅付近)を起点とし,本所区押上,錦糸町と江東地域を縦断しながら砂村新田字元〆(現在の江東区南砂2丁目交差点付近)に至る電気軌道である。本多は発起人のひとりという位置づけであるが,1913(大正2)年8月に池田と並び発起人総代に就任していることからも,当初から実質的な主導者であったと考えられる。

本多にとっては最初に京成電気軌道が存在し、次いで地元主導の城東電気軌道に参画したことで事業エリアは面的な拡大を果たすことになった。そこで、両路線を接続しネットワーク化するために,本多が主導して企画したのが江東電気軌道だったのではないだろうか。並行する放射線である京成電気軌道と城東電気軌道だけでは分かりにくい本多の路線構想は,環状線の江東電気軌道を重ねることではっきりと浮かび上がってくるのである。

実際に東京府も江東電気軌道の出願に対して「本線ハ既成鉄道ニ一部併行スル所アリト雖モ(中略)他ノ鉄道ニ影響ヲ及ホス処ナク却テ相互間利便ヲ得ルトコロ多カルヘシ」とネットワーク的意義を強調して副申をしている。

【城東電気軌道百年史特別企画 第1回】京成が市内進出の夢を託した或る未成線のはなし

反面,この頃から本多貞次郎と城東電気軌道の地元沿線発起人の関係が変化し始めたと思われる。京成電気軌道を中心とした路線ネットワークの一部として城東電気軌道を位置付けたい本多貞次郎と,自主性を発揮したい地元勢力に距離感が生じることとなり,やがて新たな主導者の擁立に走ったものと考えられる。

1912(明治45)年7月20日に本多から城東電気軌道株式会社発起人に宛てて発起人辞退届が提出され,本多貞次郎は城東電気軌道の計画から去ることになった。江東電気軌道の出願は長らく留め置かれた後に却下された。

(5日連続更新です。次回は7月31日公開)