祝!小田急複々線化完成―90年で100倍になった利用者をどう運ぶか

小田急電鉄パンフレット『小田急線の複々線化事業について』より
[1927-1936]都市交通の立体化

いよいよ今週末3月17日から、小田急線の新ダイヤによる運転が始まります。

今回工事が完成したのは東北沢から世田谷代田の1.6㎞。これで複々線化済みの区間を加えて代々木上原から登戸まで約11㎞の複々線化事業が完了しました。既に3月3日から使用を開始しており、あとはダイヤ改正を迎えるのみとなっています。

小田急、複々線の運行開始 代々木上原―登戸で工事完了

通勤ラッシュの緩和のため、小田急電鉄が29年かけて進めてきた複々線化工事が完了し、代々木上原(東京都渋谷区)―登戸(川崎市)間の11・7キロで3日に運転が始まった。17日から複々線を生かした新しいダイヤで運行し、混雑率の大幅な緩和などを見込む。(中略)

複々線化で、各駅停車と急行などが別の線路を走れるようになる。新ダイヤでのラッシュ時の輸送力は約40%増。混雑率は150%程度まで緩和すると見込む。通勤時間帯の快速急行の増発などで、新宿までの所要時間は町田から最大12分、小田急多摩センターから最大14分短縮される。(千葉雄高)

出典:朝日新聞(2018年3月3日)

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小田急電鉄にとっては1964年の都市計画決定から50年以上、1989年の事業着手から数えても30年来の悲願達成となります。

 

開業から50年で利用者は2万人から130万人に!

小田急電鉄は1927年に小田原急行鉄道として開業し、去年90周年を迎えました。新宿・小田原間82㎞を一挙に建設する積極策に出るも、開業直前に昭和金融恐慌が発生したこともあり、開業初年の1日平均の輸送人員は2万2千人、10年後の1936年は5万1千人とかなり苦しい船出となりました。

ようやく輸送人員が伸び始めたのは日中戦争が勃発した1937年以降で、1943年には1日平均の輸送人員は15万9千人と1936年の3倍以上に急増しています。戦後は1950年代に入って再び増加のペースを高め、高度経済成長期には1955年の30万人が、7年後の1962年には倍の60万人、18年後の1973年にはさらに倍の120万人と爆発的に増加します。

小田急電鉄は伸び続ける輸送需要に対して絶えず輸送力増強工事を進めてきました。朝ラッシュ時間帯最混雑区間の輸送力でみても、1955年から1960年にかけて倍増させ、1960年から1970年の10年でさらに倍増させています。1980年代に入ると、輸送力は複線設備の限界近くまで達し、いよいよ抜本的対策として複々線化が動き始めたのです。

ちなみに2017年の1日平均の利用者数は約200万人なので、小田急は開業から90年かけて利用者を100倍に増やしたことになります。

 

開業から50年で電車は2両から10両に!

開業時のダイヤは、新宿~稲田登戸(現向ケ丘遊園)間に「各駅停車」が10分間隔、経堂と稲田登戸から小田原の各駅に止まる「直通」が45分間隔の二種類の種別で構成されていました。車両はほとんどが単行(1両)で、ラッシュ時のみ一部2両編成の運行だったそうです。前述のようにしばらく乗客数が低迷しますが、1940年代に入って乗客が増えてくるとようやく3両編成の運転が始まります。

(開業時の時刻表を再現しているサイトがありました)

開業当初の多摩川鉄橋(1927年)鉄道ピクトリアル286号より

戦後になって高度経済成長期に入ると旅客は激増しはじめますが、だからといって編成の車両数を増やすのは簡単ではありません。

大前提として車両が駅のホームより長くなってしまうとドアが開けられません。今も横須賀線田浦駅や東急大井町線九品仏駅などで行われているように、はみ出る車両だけドアを開けないという奥の手もありますが、一部の駅だけやむを得ずにするものであって基本的にはホーム自体を延長しなければなりません。

1950年代の小田急線のホームの長さは70メートルで、これを目いっぱい使った4両編成の列車が導入されていました。1960年代に入ると遂にそれでは収まりきらなくなって、105メートル(17.5m車6両分)、120メートルと逐次的にホームの延長工事が行われました。

どれだけ泥縄的だったかというと、小田急は1964年に地下ホーム設置を含む新宿駅の大規模改良工事を行いますが、新駅のホームは140メートル分しか用意しておらず、すぐに足りなくなって再度拡張工事を行ったほどです。ホーム延長が完了した1977年から10両編成の運転が開始されます。

ちなみに国鉄中央線においてはそれから遡ること20年前の1958年に10両編成化が完了しています。それどころか小田急が開業した1927年の時点で、中央線では小田急の1958年の列車より長い編成が走って いたのです。私たちは現在の首都圏においてJR・私鉄ともに10両編成の列車を走らせている姿を当たり前のように思いがちですが、昭和初期から戦後しばらくの鉄道事情を振り返る際は、国鉄と私鉄の輸送力には天地の差があったことに留意しなければなりません。

 

複々線化という最後の手段

輸送力は列車の長さ(定員)×本数で決まります。小田急は編成の長大化に先だって1961年からラッシュ時間帯最少2分間隔運転を開始しており、1972年には1時間当り29本という複線の限界まで運行本数を増やしています。

輸送力の推移をみると、1960年代は車両と本数の両方で対処して大きく増加させますが、1970年代に入ると運行本数は限界に達して車両を少しでも長くするしかなくなり、それも一段落した1990年以降はほとんど輸送力は増えていないことが分かります。

複々線化工事に着手した1989年というのは、これ以上の抜本的対策を取るには線路そのものを増やすしかないというタイミングだったことがお分かりいただけるでしょう(もっとも完成まで30年を要するというのは誤算だったでしょうが)。今週末のダイヤ改正で輸送力は約4割増加し、平均混雑率も190%から160%ほどに低下する見込みです。