【城東電気軌道百年史特別企画 第3回】尾高次郎と運河と電車―仙台堀川親水公園小史

[1914-1926]

昨年12月のコミックマーケット93で、ちょうど100年前の1917年12月30日に開業した幻の電車「城東電気軌道」に関する本を発表しました。引き続き書泉での書店委託及び通信販売で好評発売中です(詳細は下記特設サイトまで)!

城東電気軌道百年史
(更新履歴) 2018年2月28日 書泉に増刷分を入荷しました、また自家通販の体制を変更しました 2018年1月11日 正誤表を作成しました(申し訳ございません) 2018年1月9日...

より多くの方に本書を知っていただくとともに、読者の反応から今後の研究の方向性を探るために、本書に補遺として収録した「本論では取り上げきれなかったトピックス」を再編集のうえ順次公開していきます(これまでの記事はこちら)。

 

補遺4:尾高次郎と東京運河土地

江東区の大島から砂町を経て木場に至る「仙台堀川公園」という親水公園があります。水と緑豊かな空間は、付近に立ち並ぶ高層マンション住民たちの憩いの場となっています。

この仙台堀川公園は、元々は人工的に開削された運河でした。公園に設置された銘板には次のように書かれています。

砂町運河跡

区民の憩いの場として親しまれているこの仙台堀川公園は、かつて砂町運河として民間の手により開削された、例の少ない運河です。
砂町が農村から工業のまちへと発展していくなかで、船による輸送力の向上を見越して運河の開削が計画され、大正八年(一九一九)に東京運河土地株式会社が創立されました。同十一年に着工し、小名木川の合流点から現在の都立東高校の正面に当たる東砂七-一九までの南北の一線、続いて旧舟入川合流点から横十間川合流点までの東西の一線が昭和八年(一九三三)までに完成しました。

 

周りを見渡せば、運河時代の名残のような景色が今も一部に残っています。

この運河を建設した東京運河土地を設立した人物を「尾高次郎(おだかじろう)」といいます。

尾高は1866年2 月に現在の埼玉県深谷市に生まれます。父は渋沢栄一の従兄であり学問の師でもあるなど、尾高家と渋沢家は血縁を越えた深い関係にありました。学校卒業後は渋沢栄一が頭取を務める第一銀行に入行、やがて経営者としての手腕を発揮して、様々な渋沢系企業に参加しました。

第一次世界大戦を経て日本の重工業化が進むと、20世紀はじめまでは静かな農村だった砂村は、東京近郊にあって人手と土地が豊富な点が注目され工業の街へと発展していきます。元々江東区一帯には多くの渋沢系工場が操業していたこともあり、更なる発展を狙って計画されたのがこの運河計画でした。

深川起点大運河六ケ月以内に工事着手予算は更に百万円増加

予て東京府土木課に出願中であった運河―深川区豊栄橋を起点として中川吐水路に至る第一期線千二百二十間と及び之と丁字形に小名木河岸(製粉会社附近)を起点として西へ海岸迄走る第二期線七百七十八間の開鑿工事は、今回請願者尾高次郎氏外十数名に対して認下となった、企業者は認可を受けてから六ケ月以内に着手すべき筈だから、遅くとも本年中には工事を起すだろうと推定される

西村土木課長は曰く「当初の予算は百五十万円であったが、認可の条件として、横十間川から中川に通ずる東西両線の水幅十八間を二十間に拡大すること、運河の両岸に沿うて設計する道路三間を六間ずつに拡大することを内務省から指定されたので、之が為に百万円以上余計にかかる事となった、此運河が竣成すると深川本所の工業地の発展に驚くべき助けとなるであろう」云々

万朝報(1919年7月16日)

そして、この尾高次郎こそが城東電気軌道開業時の社長なのです。城東電気軌道は1917年に錦糸町・小松川間を開業させたあと、続いて砂町方面への分岐線の建設に着手します。尾高ら渋沢グループの狙いは、近代的な交通インフラ整備が遅れていた砂町に、運河による貨物輸送と電車による旅客輸送を提供することだったのです。

しかしこの運河は建設中に発生した関東大震災によってその運命を大きく変えられてしまいます。地震により一帯の地盤沈下が進み維持費が想定以上に膨らんでしまった一方で、小型貨物のトラック輸送への移行と、重工業の京浜工業地帯への移行が進んだのです。江東区史によると、既に戦前からその役割は終えていたようです。

 南砂町地方の工業地帯の発達を見越して、船舶水運の便を開くために開さくされたものであったが、実際には悪条件によって意の如くならなかった。大正大震災以来、地盤の沈下と共に護岸堤防の増築、強化施設に努力したが、なお高潮防御には保障しがたく、莫大の経費を注入するために収支償わず、昭和十二年(一九三七)の日華事変以後軍需工業の隆盛時には運河の利用もさかんだったかが、会社の負担がかさみついに同十六年に東京市へその買上げ方を請願したのであった。同十七年ころには船舶の航行もなく、木材の置き場所として使用せられ、沿岸にある製材工場やベニヤ板工場に利用せられるていどになってしまった。

活用されることなく老朽化が進んだ仙台堀川(元砂町運河)は、1970年代には危険な状態となり埋め立ても検討されましたが、安全性を確保した上で公園として再整備することとなり現在に至ります。公園の碑には次のように説明されています(抜粋)。

 仙台堀川は長年の地盤沈下により護岸のかさ上げが繰り返され漏水が各所に発生し水質の汚濁が進んだことにより防災上危険な河川との指摘をうけ、その状態での河川の維持は困難となった。

そこで区は地域住民の埋め立て要望が高まる中で河川の安全性を確保し、河川のよみがえりを図ることを緊急課題として取り組み昭和五十三年一部水路を残し高水敷を造成する画期的工事に着手した。

この画期的な工事は地域住民の協力のもとに順調に進み、河川の安全性確保の目途が立った昭和五十五年四月仙台堀川は親水公園として生まれ変わり、ここに河川の再生をみたのである。

砂町が工業地域だった面影は今ではほとんど残っていませんが、尾高次郎がこの地に遺した足跡は実は今でも残っています。

江東区立第四砂町小学校から北に向かい、仙台堀川公園を越える綺麗な橋の名を「尾高橋」といいます。これは横十軒川との合流部から建設された砂町運河に架かる第一の橋であり、運河の完成を見ずに1920年に逝去した尾高氏の功績をたたえ開通時に命名されました(現在の橋は1991年に架け替えられたものです)。