江戸川に橋を3本新設するらしい―江戸と東京と災害と橋のはなし

地域(江戸・東京・首都圏)

東京都と千葉県の間に流れる江戸川に新たに3本の橋を架ける構想が浮上しました。私も荒川と江戸川に挟まれたエリアに住んでいたことがあるので、あの辺りの不便さは身に染みて分かります。対岸に渡ろうにも全然橋がないので大回りしなければならず、数少ない橋はいつも混雑していました。ただ今回の架橋は利便性向上ではなく災害対策が主目的というのです。

 東洋経済オンライン 
東京と千葉を結ぶ橋、「3本新設」検討開始へ | 読売新聞
首都直下地震など大規模災害時の帰宅経路や物資輸送路を確保するため、東京都は、千葉県との都県境を流れる江戸川などに、新たに3本の橋を整備する方向で本格的な検討を...

都によると、11年3月の東日本大震災の際、都心から千葉県側へ歩いて帰る帰宅困難者が江戸川に架かる市川橋などに殺到。橋を渡るのを諦め、東京都江戸川区側の避難施設で一夜を明かす避難者も出るなど、混乱が生じた。(中略)

都が整備を検討するのは、江戸川と旧江戸川を挟む江戸川区と千葉県市川・浦安両市のエリア。都県境には現在、北側から市川橋、江戸川大橋、今井橋、浦安橋、舞浜大橋の5本の橋が架かっているが、江戸川大橋は自動車専用道で、市川橋と今井橋の間には南北約8キロにわたって橋がない。浦安橋と舞浜大橋の間も約3キロの距離がある。

出典:読売新聞(2018年02月26日)

東京の東部エリアにはたくさんの川が流れ、橋が架かっています。都市・東京の歴史は江戸城の門前町から始まりますが、数百年の時間をかけて徐々に拡大してきました。市街地はひとつひとつ川を越えながら江東・江戸川エリアに広がり、現在は県境を越えて千葉とも一体化しています。その上で重要な役割を果たしてきた「橋」は、様々な災害を契機として、それを乗り越えるために架けられてきた歴史があるのです。

 

明暦の大火と両国橋

江戸に入府した徳川家康は土地を埋め立て、濠と運河を掘り、江戸城とその門前町を一大拠点に育て上げました。江戸時代最初期の市街地は江戸城と隅田川に挟まれた一帯に過ぎませんでしたが、参勤交代が定められると各藩から大名と武士が江戸に集まるようになり、武家屋敷の需要に対応するために商人・職人が集い、町人街も大きく拡張していきます。

そうして急激に過密化していった江戸を襲ったのが、江戸城の天守閣や武家屋敷、寺社仏閣を含む市街地の大半を焼き尽くし、10万人以上の死者を出す江戸史上最大の大火として知られる、1657年の「明暦の大火(振袖火事)」でした。幕府はこれを契機に都市の大改造に着手し、広小路など火除けの設置を進めるとともに、大火で焼かれた寺社仏閣や大名屋敷を郊外に移転するなど、江戸市街地の拡張を進めます。

それまで幕府は江戸防衛のために千住大橋を除き隅田川に橋を架けることを禁じていましたが、大火の際に隅田川対岸に逃げられずに多くの犠牲が出たことから、大橋(両国橋)の架橋という大きな政策の転換に踏み切ったと言われています。江戸市街地に組み込まれた本所・深川は町人街として急激に発展したため、徳川綱吉(犬将軍)時代の17世紀末に、さらに新大橋と永代橋が架けられています。

 

関東大震災と復興橋梁

隅田川には江戸時代に5本の橋が架けられ、東京に改称された明治以降に厩橋、相生橋、白鬚橋の3本が追加設置されましたが、新たな大災害によって隅田川の橋梁群は再び大きな転機を迎えます。それが1923年の関東大震災です。

当時隅田川に架かる橋はほとんどが木橋、または鉄骨構造でも橋面に木材が使われていたため火災で焼け落ち、またしても多くの人が川を渡り切れずに震災の犠牲となりました。1912年に鉄橋として架け替えられていた新大橋だけは火災から免れ、多くの避難民の命を救ったことから「お助け橋」と呼ばれ、ふもとに記念碑が建てられています。

※当時の新大橋の一部が愛知県の明治村に移築保存されています

明治建築を保存展示する野外博物館。案内図、イベント。

震災復興事業では新大橋以外の橋を鉄橋として架け替えるとともに、新たに言問橋、駒形橋、蔵前橋、清洲橋を整備し、隅田川対岸の結びつきは更に強まることになりました。この時架けられた橋のほとんどが現在もそのまま使用されており、一部は重要文化財に指定されるなど、東京のシンボルとして愛されています。

 

荒川放水路開削事業と地域の分断

同時期に東京ではもうひとつ荒川放水路の建設という大改造が行われていました。これは1907年、1910年の大洪水で下町が大きな被害を受けたことを受けて、隅田川上流から分岐して東京湾に水を逃がすバイパスとして計画されたもので、20年近い年月をかけて全長22㎞の人工河川が開削されました。

全ての事業が完了するのは1930年のことですが、関東大震災の翌年1924年から通水が始まるため橋の建設が進められていました。事業の完成までに上流から下流まで6つの橋(前図参照)が整備されますが、約500mの幅で建設された放水路は地域を大きく分断することになりました。下図(今昔マップ on the webにて作成)で小松川周辺の工事前後の変化を示しているように、これまでの河川とは全くスケールが異なっていることが分かります。

ただ建設された時点では東京の市街地は荒川放水路まで到達しておらず、都市圏が対岸に広がっていくのは戦後のことです。当初から橋が架けられた小松川も、戦前に工業化・市街地化が進んだのは放水路の西側だけで、現在も生活文化圏自体が江東区側、江戸川区側に分断されているように、東西で全く異なる発展を辿っています。

災害とは異なりますが、東京大空襲では隅田川と荒川放水路に挟まれた地域が特に大きな被害を受けました。これらの橋を渡って対岸へ避難した方もいましたが、火の手から逃れようとして川の中へ飛び込み亡くなった方も多かったと言われています。

 

人の流れは江戸川も越えて

隅田川、荒川放水路の順に東へと広がってきた橋の流れが、今回の江戸川の事例に繋がっているのです。契機となったのは、冒頭で引用した記事にもあった通り、東日本大震災時に多くの帰宅難民が集中して交通がマヒしたという災害の教訓でした。

鉄道・道路網の発達により既に何十年も前から、人も物資も江戸川を越えてひと続きに繋がって動いています。今回の決定は遅すぎたとも言えるかもしれませんが、しかし、これまでのように10万人以上の犠牲を出す前に進んだことは前向きにとらえたいと思います。

 

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