世界初の駅ナカスーパーマーケットを目指した東京地下鉄道の試み

[1927-1936]

東京メトロの前身の一つである銀座線の浅草・新橋間を建設した東京地下鉄道株式会社は私鉄だったので、東横電鉄(現東急)や小田急、京急、京成などと同じように様々な関連事業(兼業)を行っていました。そのひとつである「地下鉄ストア」は、しばしば日本初の地下街として取り上げられることがありますが、日本のチェーンストア史においても特筆すべき先駆者であったことはあまり知られていません。

地下鉄の先生は阪急だった

1927年12月30日に日本初の地下鉄(浅草・上野間)を開業させた東京地下鉄道は兼業の準備に着手、1929年3月に担当者を阪神急行電鉄(阪急)に派遣しました。阪急は沿線住宅地の分譲から始まり、動物園・温泉・宝塚歌劇団など沿線の観光開発を進め、1929年4月には日本初の電鉄系ターミナルデパート「阪急百貨店」を開業するなど、日本で最も先進的な兼業展開を行っていた鉄道会社でした。

開業時の阪急百貨店(阪急webサイトより)

阪急の駅ビル事業は百貨店開店からさかのぼること9年前、1920年に梅田の駅ビルの一階に白木屋百貨店を誘致、二階に直営食堂を開業したことに始まります。これに倣って東京地下鉄道もまず食堂経営から始めることになり、社員派遣から半年後の1929年10月に浅草駅直結の地下鉄雷門ビル(2006年解体)に地下鉄食堂をオープンしています。吟味した料理を低廉な価格で提供したところたちまち評判になり、浅草の新名所とも言われたそうです。

開業当時の浅草雷門ビル。壁に「地下鉄直営食堂」の看板が見える

食堂が成功を収めると、1930年4月に地下鉄上野駅構内に「地下鉄ストア」を開店し、日用品販売に乗り出します。「どこよりも良い品をどこよりも安く売る」をモットーに食料品、菓子、日用雑貨、玩具などの販売を廉価で売り出したのです。

実はこれも阪急に倣ったもので、阪急は1925年に白木屋の出店契約が満了すると、後釜に直営の「阪急マーケット」を開業しています。日用品販売の成功を確認し、満を持して新ターミナルビルに阪急百貨店を開店させるに至ったのです。ちなみに阪急百貨店は開業前に「どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい」というコピーの新聞広告を出しており、地下鉄ストアの経営方針には阪急の影響が伺えます。

駅ビル、駅ナカのご先祖様

東京地下鉄道の地下鉄ストアは、駅直結の利便性と良品廉価主義が好評を博して予想以上の成績を収めます。駅の一角に設けた売り場はすぐい手狭になったこともあり、開店から半年後には上野駅前(現在の東京メトロ本社ビルの場所)に地上9階地下2階の自社ビル建設に着手。1931年12月に地下鉄ストアはビルに移転してリニューアルオープン、ストア跡地には地下鉄食堂2号店を開店しました。

日用品販売で成功を収め、大規模な商業ビルを建設するところまでは阪急と同じなのですが、東京地下鉄道は百貨店経営に参入するのではなく、日用品販売の横展開を試みるのです。それまで師の教えに忠実に従ってきた東京地下鉄道が、初めて独自の道を選んだ理由は東京地下鉄道建設史に次のように記されています。

我が国におけるデパートメントストアの発達は、三越、松坂屋、白木屋、高島屋、松屋等の如く、欧米諸国におけるデパートに比較しても敢て遜色なき程であるが、チェーンストアに至っては未だ真の意味では皆無といってもよいほど発達していない。

しかしわが国の大都市の将来に於ては必然的に日用品雑貨のチェーンストアが起ってこなければならない。如何となれば、日常必要な小さな品物を需むるに当たって、多くの時間と、多額の交通費を費ってデパート迄買出しに行くことは経済の原則に悖る。

出典:東京地下鉄道建設史(乾)

百貨店を目指さないどころか、沿線の老舗デパートに対抗意識を燃やしているのです。しかしこれは東京という立地と、地下鉄ならでは特性をしたたかに計算した勝算あるチャレンジでした。

例えば阪急や東急のような郊外型私鉄は、沿線住民が都心を目的地として集まってくるため、ターミナル駅に百貨店を設けると最大限の効率を発揮します。ところが地下鉄は各駅にそれなりの利用者がいますが、銀座、日本橋、新橋などそれぞれの目的地に散っていきいます。そうした商業地域には歴史ある有名百貨店が店を構えており、地下鉄構内とも直結しているため勝負になりません。そこで目的地としての駅ではなく、出発地・最寄駅としての地下鉄駅に着目し、日用品を扱うチェーンストアを駅に併設して展開しようと考えたのです。

幸にもわが地下鉄道は市内枢要の地点に停車場を設け、これに出入口を付けるのであるから、そこに商店を建設して連鎖的に経営すれば必ず電鉄事業の副業として最も有利なものとなるに相違ないと考えられた。しかし、世界二十四の地下鉄道中未だ一つもかくの如き計画をたて、チェーンストア経営をしているものはない。

従って、これが参考とすべきものはないが、チェーンストア経営上に多くの便宜を持っているわが地下鉄会社の場合においては、これを諸電鉄の電灯経営等に匹敵する副業とすることは決して難事ではないと思われたので、これを経営する事に決し、昭和5年12月、中島事業課長を米国に派遣して同国内の百貨店、チェーンストアの事業を調査研究せしめた。

出典:東京地下鉄道建設史(乾)

これは日本の鉄道会社はもちろん、世界の地下鉄を見渡しても例を見ない先進的なチャレンジでした。東急ストアや東武ストアといった電鉄系チェーンストアが登場するのは1950年代に入ってからのことで、戦前の都市規模ではターミナル駅以外に商業施設を展開しても採算が成り立ちませんでした。そこで東京地下鉄道は小売先進国アメリカに事業課長を派遣し、最先端のノウハウを学ぶ事にしたのです。

地下鉄ストアの事業展開

早川はストア事業について次のように語っています。

我が社が地下鉄ストアを始めました理由は、この利益によって本業たる地下鉄事業を助けていくということがひとつの目的でございます。然らば何うしてこの地下鉄ストアを発達せしめ、本業を助けて参るかと申しますと、地下鉄へ乗っていただく乗客並びに東京市民の方々に奉仕を第一として営業しその目的を達したいと思うのでございます。

二十世紀の現代における営業の神髄は奉仕を基礎といたします。この奉仕を拡充することによって、その結果として利益を得さして戴くのであります。

それ故当地下鉄ストアでは「何処よりも良い品を何処よりも安く売る」という標語をモットーと致しております。現にこの廉売主義を裏書きするために、他の百貨店に比べて、若し高いものがあったならば、この場で一割増して買い取るということを声明しているのであります。

早川は廉売主義を実現できる理由として、本社の事務部門で会計など事務作業がまかなえる、資本金四千万円の信用力とスケールメリットで問屋から安く仕入れることができる、電車用電力を流用できるから電気代が安いなど、一般的な百貨店と比べて経費が大きく節減できることを挙げています。

そしてもうひとつユニークなのが次の理由です。

当地下鉄ストアにおきましては、他の百貨店の如く品物の配達をいたさないのでございます。この配達ということは非常に便利のようであるが、子細に考究してみますと其所には幾多の不合理があるのであります。この配達は結局配達を命ぜられなかった品物にも負担させらるうことになって公平を失するばかりでなく、配達を命ずるお客の多数は上層階級で、世に所謂ブルジョア階級に属する人が多数を占めているのであります。これを極言すれば、日常生活に余裕なき人々の買物の内から、配達費を搾取して、豊富なる生活をしている階級の人々の買い物にサービスすることになるのであります。

「ブルジョワ階級」「搾取」といった表現に時代を感じますが、ともあれ富裕層向けの百貨店経営ではなく、あくまでも一般市民向けのチェーンストアを志向したことが大きな特徴でした。

1931年12月1日、新装の上野地下鉄ストア開店記念式典で、早川は今後の事業展開方針として次のように述べています。

地下鉄道の各停車場ごとに、当上野地下鉄ストアと同様食料品を中心としたストアを十二ケ所ばかり設ける予定であります。のみならず、更に進んでは東京市内一円に、日本初めての真のチェーンストアを設置して経営していこうと思っています。何と申しましても日本人の所得は欧米人の収入に比較すると少ないのでございます。その少ない収入で充実した生活を営もうとするには生活必需品を低廉に購入する仕組みが必要であります。地下鉄ストアはチェーンストアとしての機能を発揮して、この点に貢献し、生活の安定に資したいというのが、我々の理想であり、また心願でございます。

沿線への展開だけでなく、東京市内全域への展開まで視野に入れていたことが分かります。

地下鉄ストアは路線の延伸とともに拡大していきました。1931年12月の上野地下鉄ストアに続いて、ビル型の店舗として1932年4月に神田須田町地下鉄ストア、1933年5月に室町地下鉄ストア(三越前駅付近)を開業しています。また駅構内型店舗として日本橋地下鉄ストア、銀座地下鉄ストア、新橋地下鉄ストアを開業しています。

壁面の大時計が地下鉄ストアビルのシンボルだった

神田の地下鉄ストアというと、2011年まで地下通路に並んでいた商店街を連想するかもしれませんが厳密には異なります。地下鉄ストアは駅ビルのことを指し、地下道の商店街は後から新設されたもので「地下鉄市場」と呼ばれていました。

チェーンストアの歴史

「チェーンストア米国百年史」によると、チェーンストアは20世紀初頭にアメリカで誕生しました。これは当初からチェーン店の拡大を企図したものではなく、商業的な成功を収めた商店が、単一店舗での販売の限界と、さらなる売上拡大を狙って、近隣に2号店、3号店を設置していき、やがて地域の外にも展開を広げていくことで成立したものです。規模の拡大によりスケールメリットが生じ、廉売が可能になり、地域独占を広げていくという戦略です。

経営学的には「単一資本が自ら設置した店舗を11店以上直営している小売・飲食業」と定義されているため、最終的に10店舗にも達しなかった地下鉄ストアは厳密にはチェーンストアには当てはまらないのですが、早川の挨拶にもあった通りその意図は明確にチェーンストア展開を志向したものでした。

日本チェーンストア協会によると、日本で本格的にチェーンストアが普及したのは1950年代以降のおとと言われています。地下鉄ストアが日本初のチェーン展開というわけではなく、メーカー直販店やレストランなどのチェーンストアは1910年代から存在したようです。ただ都市圏で日用品を販売するチェーンストアは、1930年代に高島屋百貨店が大阪・京都・名古屋・東京に50店舗以上を展開した「高島屋10銭ストア」が数少ない事例と言われており、東京地下鉄道の試みが先進的だったことは間違いありません。

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「高島屋10銭ストア」は100円ショップの元祖とも言われる

実際、地下鉄ストアが高島屋10銭ストアに対抗していたというエピソードも残っています。

京橋にある冷暖房工事会社の社長、川畑信治さん(七〇)は、かつて検品係から上野ストア店長まで務めた。「地下鉄タビが名物だった。行徳(千葉)の業者との特約で、品物は格安、抜群。それに、高島屋の十銭均一セールに対抗して、九銭均一の売り出しもやったな」。

出典:読売新聞(1977年11月22日)「モグラ電車は50歳(7)縁の下で」

地下鉄ストアの終焉

地下鉄ストアが事業として成功だったのかは議論が分かれるところです。浅草・銀座間が全通した1934年下期の鉄道部門売上は91万円、一方地下鉄ストアを中心とする兼業は14万円でした。決して小さくない規模ではありますが、経営の柱にはなりえません。当初壮大な目標として掲げた沿線外への店舗展開もついに実現しませんでした。

旗艦店であった上野地下鉄ストアにしても、上野駅前では目立ったビルではありましたが、繁華街である上野広小路とは距離があったため、商業的には成功したとはいいかねるものでした。室町地下鉄ストアにしても、1934年下期の営業報告書には「二階以上の階部は顧客の離散著しく(中略)一階以下を市場式売店に改め付近の顧客を収集してその利便を計りつつあり」とあるように、開店から僅か1年で大幅な縮小を迫られていたことが分かります。後に室町ビルは売却されることになり、須田町ビルも子会社の東京乗合自動車の本社が移転することになり、須田町ストアの売り場が移転・縮小されています。

1941年に東京地下鉄道は解散して帝都高速度交通営団が設立されますが、ストア事業は鉄道に付帯する事業とみなされそのまま引き継がれています。すぐ太平洋戦争が勃発して物資の不足により休業を余儀なくされますが、1945年12月から営業を再開しています。

戦後の須田町ストア

その後は全体の約2割ほどを直営、他は委託販売や賃貸契約としながら、戦後もしばらく存続しています。2011年まで現存していた神田駅の須田町ストアはその最後の名残だったというわけです。