【祝・開業10周年】東京メトロ副都心線とわたし

[1995-2011]テロと災害の時代

今日で地下鉄副都心線の開業から10年を迎えました。この10年、色々なことがありましたが、あっという間でもありました。プロフィールでも明かしていますが、私は2006年4月から2017年6月まで東京メトロに勤めていました。最初に広報部に配属された私にとって、副都心線は最初の大きな仕事でした。

たぶん、あの時の経験がなければ、こうして会社から離れて活動することもなかったことでしょう。副都心線10周年を記念して、退職後も課されている「守秘義務」に触れない範囲で、あの頃の思い出を振り返ってみたいと思います。

地下鉄博物館に展示されているトンネル断面図。工事中は工事現場で説明用として使われていた。

副都心線は2001年6月15日に着工されました。ちょうど7年の工期で開業に至ったわけですが、このうち最初の4年間は本格的な工事を行うための準備の期間です。最近の地下鉄は、駅部分を地上から掘り下げて建設し、駅間のトンネル部分は駅から発信したシールドマシンでくりぬいて作ります。道路下には東京電力、上下水道、電話線そして既設の地下鉄路線など様々な埋設物があります。必要に応じて移設、保護しながら地下を掘り下げていくのが最初にして最大の難関です。

副都心線建設で実際に使われたシールドマシンのカッターディスク(地下鉄博物館)

シールドトンネルの建設工事は2005年に始まり、完成した区間から順次軌道を整備していきます。2006年末にはトンネル建設がおおむね完了し、レール締結式を行ったのが2007年12月。駅の建築工事や電気設備工事も2007年に入ってようやく本格化し、開業までの1~2年で一気に出来上がってくるのです。当時は週に2~3回は工事現場に通ってましたが、行くたびにどんどん地下鉄っぽくなっていくのが不思議な感覚でした。

シールドトンネルとは写真のようにコンクリートブロックを組み合わせて作られる円形のトンネル

副都心線開業に向けた盛り上がりは、それはとてもすごいものでした。「最後の地下鉄新線」のキャッチフレーズで、東京を大きく変えるだの、JRとの真っ向勝負だの、連日メディアに取り上げられました。ところで、関東の鉄道マニアのみなさんは多分私の顔を見たことがあるはずです。2008年6月13日に放送されたタモリ倶楽部「東京メトロ副都心線で試通勤」で、タモリご一行を案内したのが私なんですね。今とは似ても似つかぬ風貌ですけど。

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開業前日に記念式典が行われた(写真:鉄道ホビダスより)

次の3枚の写真は開業前日、2008年6月13日の開業式典対応で新宿に行った時に撮影したものだったと思います。副都心線開業によって地下鉄直結になる新宿高島屋は特に熱を入れてましたね。ちなみに北参道寄り通路と連絡口は高島屋の費用負担によって作られたものです。

一番乗り狙いの人が並ぶ甲州街道沿いのE9出口

高島屋が作った路線図を模した開業記念ケーキ。新宿三丁目と日本橋に「高」マークがついている。

使用済み乗車券を使って(確か)高島屋社員が作ったアート

思えば、あの瞬間が副都心線の絶頂期でした。開業当日は朝から予定されていた取材対応のために3時過ぎに新宿三丁目駅に入って、まだ誰もいないホームで柱に向かって「いよいよだな、がんばれよ」とかつぶやいてました。完全にキモい人ですが、4年連れ添った戦友のような思いがあったのです。

そして4時30分頃にシャッターが開き、いよいよ営業が始まりました。改札付近に立ってると「昨日のタモリ倶楽部見ましたよ! がんばってください」なんて声をかけられてテレビの影響力を感じたりもしてました。そういえば以前取材に来てもらって面識のあった「元祖鉄道アイドル」豊岡真澄さんにも声をかけてもらいました。豊岡さんは同じ年で、引退後も色々活躍されてて嬉しい限りです。

雲行きが怪しくなってきたのは9時過ぎでした。岩手で大きな地震があったようだと、マスコミが予定を切り上げて帰りはじめたのです。死者・行方不明者23人を出した「岩手・宮城内陸地震」です。

この地震では、くりはら田園鉄道の保存活動で栗原を訪れていた鉄道博物館学芸員の岸由一郎さんが土砂崩れに巻き込まれ亡くなるという悲劇もありました。

途端に仕事がなくなって、改めてホームに降りて電車を眺めていると、停止位置修正をする列車が妙に多いのに気が付きました。手前に止まったり、オーバランしたり、まともに動いているのはメトロ10000系くらいです。これはまずいんじゃないか… 嫌な予感が頭をよぎります。土曜日だというのに、終日5分から10分の微妙な遅れが発生していました。

翌日の日曜日も取材対応で出勤でしたが相変わらずの状況で、乗客は「開業したばかりだからまだ慣れてないのかねえ」と苦笑していましたが。土日でこの有様ということは、月曜日は大変なことになるのではないか。ますます不安が大きくなります。

そうして迎えた月曜日は、初の平日ということで朝からNHKが池袋駅で生中継することになっていました。7時半過ぎ、レポーターが「少し電車が遅れているようですね」と伝えます。悲劇はここから始まりました。

2008年6月16日23時の小竹向原駅(写真出典:MarkeZine

副都心線大遅延事件については皆様の記憶(怒り)もまだ新しいことでしょうし、様々な場所で語られているので省きますが、これは私にとっても深刻な問題でした。2日前に「昨日テレビで見たよ」と声をかけられているわけです。あの時はまだしも、副都心線が爆死をとげた今となっては、顔が割れているのはシャレになりません。開業前に散々メディアで持ち上げられていただけに、「調子に乗って取材受けてるからこうなるんじゃないか」と怒られても仕方ないなと、顔を伏せながら帰った記憶があります。

副都心線は停止位置修正によるダイヤ乱れの他、直通先で人身事故が発生すると終日まともに動かなくなる状況が1カ月連日のように続きました。末端で関わっていた身といえども、当時の利用者の期待を裏切り、大変な迷惑をおかけしたことには、今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。

10年でダイヤの見直しや小竹向原・千川連絡線の整備、新宿三丁目駅の改良などが行われ、東急東横線・みなとみらい線との直通運転が始まりました。今でも直通先のダイヤ乱れの影響を受けることはありますが、全体的に見れば遅延しにくい路線になりました。ひとつの路線の誕生(難産でした)と成長を見届けた経験は、自分の大きな原点になっています。会社は離れてしまいましたが、副都心線への愛憎はきっと死ぬまで忘れないのだと思います。

いろいろあったけど、とりあえず、10歳、おめでとう!