【新橋駅幻のホームの謎を追え!】第6回 早川徳次と五島慶太の新橋争奪戦(上)

[1927-1936]

幻のホーム特集記事が本になりました! 本文はほとんど書き直して、図表も足して、さらに分かりやすく。ぜひご覧ください。

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(過去の記事はこちらから)

これまでの経緯

東京地下鉄道と東京高速鉄道がどのような対立、協議、合意をした結果として新橋駅幻のホームができたのか、本題に踏み込む前に第1回から第5回までの記事で対立に至るまでの経緯を確認してきました。改めて年表の形で振り返っておきましょう。

1931年12月8日
東京市と東京高速鉄道で免許譲渡契約締結(2

  • 将来的に東京地下鉄道と合併すること
  • 東京市が買収する際にはいつでもそれに応じること

1932年7月
東京市議会が免許譲渡を承認(2

1932年10月1日
鉄道省が3、4号線の譲渡認可(2

  • 発起人は1933年9月30日までに会社を設立する
  • 本許可は第1号の期間内に会社を設立した時に効力を発する
  • 鉄道大臣が必要ありと認めた時は、線路および工事方法の変更を命じることができる
  • 本鉄道の路線中、東京市または東京地下鉄道所属鉄道線路を横断し、またはこれと連絡する箇所については、工事施行認可申請書再提出前にその大綱を定めて、鉄道大臣の認可を受ける

1932年11月11日・28日・29日
新橋駅付近会社線と譲渡線の連絡に関する打ち合わせ(3

1933年7月17日
東京地下鉄道は銀座新橋間の工事施行認可申請を認可される(4

1933年9月
会社設立期限の1年間延長申請を認可(4

1934年9月5日
東京高速鉄道株式会社が設立される(4

1934年10月1日
3号線と4号線をつなぐ「連絡線」の免許出願(5

五島慶太率いる東京高速鉄道は、3号線渋谷と4号線新宿を「新橋直結」して東京地下鉄道に乗り入れようと画策します。3号線と4号線をつなぐ連絡線の出願など、都市計画に定められた路線計画を覆そうとする試みに、鉄道省と東京市は動揺を隠せません。

新橋を巡る争い

東京地下鉄道は乗り入れを拒否して「虎ノ門接続」を主張します。東京高速鉄道は虎ノ門から直接東京駅に向かい、東京地下鉄道は虎ノ門で左折して五反田・品川方面に向かう。両路線は虎ノ門駅で同一ホーム乗り換えとする、というプランでした。

「虎ノ門接続」は鉄道省監督局長の支持もあって1932年当時は有力な案と目されていましたが、1934年に五島慶太が登場すると風向きが一変します。東京高速鉄道は、今必要とされているのは渋谷・新宿から都心に直通する地下鉄であり、「新橋直結」による東京地下鉄道線直通を実現できなければ地下鉄を建設する意味はないと主張しました。

1934年11月、東京高速鉄道の工事施行認可申請の設計案を聞きつけた早川徳次は、その内容に抗議すべく専務の脇道誉と常務の五島慶太に対して次の通り書簡を送付しました。

本日平聞する所によれば、貴社に於ては弊社新橋停車場に渋谷東京駅線を突つけの御設計をなし、この設計により既に鉄道省に提出せられたる工事施行認可申請書の変更方を申請せらるる趣に伝承仕候。(中略)

弊社線に新橋駅にて突つけ連絡する御設計は、第一に弊社線の札ノ辻五反田線並札ノ辻品川線への延長計画を阻止し列車の運転上に支障あるのみならず、鉄道省監督局監督局より提示せられたる基礎条件の第二項たる東京駅まで分岐することも不可能と相成申候。若し此れ渋谷線が東京駅を経由して巣鴨に至らざるやうのこと有之候へば大正十四年三月三十日内務省告示の地下鉄道線路網をも無視することと相成りべく候(後略)

東京地下鉄道 地乙第二八ノ七一号(1934年11月13日)

東京高速鉄道の申請の通りになると両社の路線は新橋で完全に一体化して一つの路線になってしまい、東京高速鉄道が東京・巣鴨方面に延伸することもできなければ、東京地下鉄道が五反田・品川方面に延伸することもできなくなります。東京地下鉄道の免許権を侵害するどころか、1925年の地下鉄整備計画を根底から破壊する案であり、早川としては到底看過することはできないものでした。

書簡を受け取った五島は、同年11月19日の役員会で「新橋直結」の方針を改めて確認します。

東京高速鉄道線と東京地下鉄道線との新橋連絡設計に関する意見

当社の免許線たる渋谷線橋間線路は東京地下鉄道現在開業線終点新橋駅に於て軌条を直結して建設し而して渋谷より浅草迄車両の直通運転をなし、乗換の不便を省くを以て市民の交通上及東京高速、東京地下両会社の経済上最善の案と信ず。

当社新宿線もまた四谷見附赤坂見附間の連絡線が免許せられれたる暁に於いては、前記渋谷線同様新宿より浅草迄直通運転を為すを以て交通上及び両社の経済上一層有利なりと信ずるものなり。

そして1935年1月31日、社長の門野重九郎名義で東京地下鉄道に対して次のように回答しました。

東京地下鉄道株式会社 社長 根津嘉一郎殿

貴社線と当社線との連絡に関しては貴社専務取締役より当社専務常務両取締役に対し累々御意見御通報の次第も有之当社に於ても慎重審議を重ね候処貴社と弊社との将来における事業経営上よりするも、また交通機関統制の見地よりするも、当社の免許線路は貴社の現在開業線終点新橋駅に於て軌条を直結して建設し、両車両の直通運転を為し、乗り換え不便を省くを以て市民の交通上最善の策と被存候に付、弊社の意の存ずる所ご了承被下是非本案に御同意相願度此段得貴意候

東京高速鉄道 高速発第二〇号(1935年1月31日)

なぜ東京高速鉄道は11月19日に社内決定した方針の回答を1月31日まで引っ張ったのでしょうか。実は同社は1935年2月に渋谷・新橋間6.3kmの工事施行認可申請を鉄道省に申請しています。つまり、回答の内容を見ても明らかなように時間切れギリギリを狙って「考え直したけどやっぱりその方針で行くのでよろしく」と一方的に送り付けた格好だったと思われます。

その一方的な姿勢は、早川徳次から脇道誉と五島慶太に対して送られた1934年11月13日の書簡に対して、1935年1月31日の回答は社長間つまり門野重九郎から根津嘉一郎に対して送られていることからも推測できます。

待たされた挙句に一方的な回答を送り付けられた東京地下鉄道は、すぐさま1935年2月5日の重役会で対応方針を協議し、次のような回答を決定しました。

突付け軌条直結を承認するに就いての条件(抜粋)

  • 東京高速鉄道株式会社渋谷線と当社線とは別紙略図の通り虎ノ門に於いて連絡することを先決問題とすること
  • 虎ノ門連絡停車場残余の部分は本社が品川方面への延長線工事に着手の場合建設すること
  • 品川線開通(一部開通を含む)の場合は虎ノ門連絡停車場建設の為め両社の要したる総費額の半額及東京高速鉄道株式会社が新橋虎ノ門間建設に要したる建設費額の全額を当社より東京高速鉄道株式会社に支払ひ虎ノ門連絡停車場は共有とし虎ノ門連絡停車場以東は当社の所有とす

別紙略図

東京地下鉄道の回答は、あくまでも虎ノ門接続案を前提とした上で、後日品川・五反田方面延長線が開通した時に虎ノ門・新橋間を東京地下鉄道が買い取るという条件付きで、虎ノ門・新橋間の先行整備と直通運転の実施を認めるというものでした。東京高速鉄道が一歩も引かない姿勢を崩さないことから、暫定的に新橋突付け設計案を認める(ただし将来的に当初計画に回帰する)という妥協案の提示に至ったのです。

あくまでも虎ノ門接続を譲らない東京地下鉄道と、虎ノ門・新橋間を手放そうとしない東京高速鉄道、ここで両社の直通運転を巡る対立は最初の山場を迎えることになります。

続く