【新橋駅幻のホームの謎を追え!】第2回 東京地下鉄道と東京高速鉄道

新橋駅幻のホームの謎を追え!

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東京の地下鉄網建設計画

世界で初めての地下鉄は1863年1月9日、鉄道発祥の国イギリス・ロンドンに開業したメトロポリタン鉄道です。まだ電車は発明されていませんので、地下トンネルを蒸気機関車が走るというとんでもない乗り物でした。そのころ都市部の軌道交通といえば馬車鉄道が主流でしたが、1880年代にドイツで電車が実用化されると路面電車は瞬く間に世界中に広がります。やがて交通量の増加、自動車の出現などにより、道路と立体交差する交通機関が求められるようになり、20世紀に入るとパリ、ベルリン、ニューヨークといった世界的大都市で地下鉄の建設が始まりました。

日本初の電車は1895年に開業した京都電気鉄道で、1903年には東京市にも路面電車が開業します。1904年には甲武鉄道市街線(現在の中央線)で電車の運行が開始され、1909年からは山手線にも電車が走り始めました。

(この頃中央線を走っていた電車についてはこちらをご覧ください)

【東京都市交通博物館 第1回】100年以上前に中央線を走っていた通勤電車の祖先―デ963形

下図は鉄道国営化直前の1906年の路線網です。当初東京の鉄道ネットワークは、江戸以来の中心地域である上野から新橋に広がる市街地を避けて構築されました。日本鉄道と官営鉄道の連絡のために建設された品川線も、東京市域を迂回するように走っていることが分かります。

都市内交通を担う路面電車網は3社の民営会社によって整備され、1911年に東京市が買収して市営電車が成立しますが、第一次世界大戦の大戦景気によって東京のヒト、モノ、カネの動きが急激に増加しはじめると、すぐに路面電車の輸送力は不足し始めます。いつも混雑していて、いつまで待っても乗れない路面電車は「東京名物」とまで言われました。

地下鉄の父、早川徳次

東京の「通勤地獄」解消のために地下鉄建設を唱えたのが早川徳次です。1914年から1916年にかけて欧米各国を遊学し、最先端の地下鉄を目の当たりにした早川は「東京の交通事情を解決するには地下鉄しかない」と確信します。帰国後独力で様々な調査を重ね、東京に地下鉄を建設できること、事業として十分成立することを確かめると、東京軽便鉄道株式会社(後に東京地下鉄道と改称)を設立し、地下鉄建設の免許を出願しました。

当初世論は「山師」「法螺吹き」と冷淡でしたが、地下鉄の実現性・必要性が明らかになるにつれて、東京の交通問題を解決する切り札として大きな期待が寄せられるようになります。1917年には東京の交通問題を調査する「東京市内外交通調査会」が組織され、東京全体の問題として考える機運が高まると、武蔵電気鉄道・東京鉄道・東京高速鉄道が地下鉄建設への参入を表明、東京市も「市営地下鉄」計画を発表します。

ところが第一次世界大戦が終結すると、大戦特需で儲かっていた日本は反動で大不況に陥りました。追い討ちをかけるように1923年(大正12年)に関東大震災が発生、東京下町は火災によって焼け野原となり、地下鉄どころの騒ぎではなくなります。唯一、計画が具体化していた早川徳次の東京地下鉄道だけが計画を縮小して事業を続行、それ以外の会社は建設に着手することすらできずに免許取り消しとなりました。

関東大震災後、震災復興計画にあわせて地下鉄路線網が改めて検討され、1号線から5号線まで5路線の地下鉄整備計画が策定されます。東京地下鉄道の建設する路線が1号線とされ、それ以外の2~5号線は東京市に免許が与えられました。

1925年9月27日、東京地下鉄道の第1期線第1工区浅草~上野間の起工式が執り行われます。前例の無い地下鉄建設工事は幾多の苦難を乗り越えながらも概ね順調に進み、1927年12月30日、ついに日本初の地下鉄が開業しました。

東京高速鉄道による東京市免許線の代行建設

一方の東京市は、莫大な資金を投入して関東大震災の復興事業を進めていたため、それ以上の財政的な余裕がなく、地下鉄建設に向けた動きは具体化していませんでした。この状況を見て、東京市が免許を保有する地下鉄全線を代わりに建設したいと名乗りでたのが、東京地下鉄道(浅草~上野間)の建設工事を請け負っていた大倉土木(現大成建設)の門野重九郎です。

3度目の出願で、将来東京地下鉄道と合併すること、東京市が買収する際はすぐに応じることなど、いくつかの条件付で免許の譲渡が認められ、1931年12月に譲渡契約が締結されました。これが後の「東京高速鉄道株式会社」ですが、この時点ではまだ会社創立には至っておりません。

またこの発起人には早川徳次も加わっていたものの、当初大倉土木は単独で出願を進めようとした経緯がありました。東京地下鉄道からすれば庇を貸して母屋を取られそうになった格好で、面白くありません。地下鉄利権を虎視眈々と狙う実業界の動きに早川は不信感を抱き、これが後々まで尾を引くことになりますが、それはまた別のお話。

この時に譲渡されたのは、3号線(渋谷~新橋~東京間)と4号線(新宿~四谷~築地間)の免許です。この背景には都市構造と交通需要の変化がありました。

大正末から昭和初期にかけて私鉄路線が次々と開通すると、山手線の外側に住宅地が広がっていきます。私鉄の発達は、山手線という都心直通で高速運転かつ大量輸送が可能な交通機関があったからこそのことでしたが、沿線の開発が進み利用者が増えてくると市電と省電(山手線、中央線)だけではまかなえなくなってきたので、郊外のターミナル駅と都心を結ぶ新しい交通機関=地下鉄の建設が求められていたからです。

(この頃の国鉄ネットワークについてはこちらをご覧ください)

【東京都市交通博物館 第3回】新時代のスタンダードを身にまとった木製電車―モハ1形

5号線(池袋・東京間)免許の譲渡も検討されましたが、この当時の池袋はターミナルとしては新宿、渋谷より一段規模が小さかったため見送られました。

このようにして、東京市が保有する免許線についても、ようやく建設に向けた動きが具体化してきます。

続く