地下鉄漫才の春日三球が三河島事故で亡くした相方のはなし

左から貨物列車、取手行電車、上野行電車
[1957-1973]地下鉄はまだか

ターンスタイル改札機のレプリカの記事で春日三球・照代について触れました。

日本最古の自動改札機のレプリカは「聖蹟ターンスタイル」だった!

春日三球・照代は実の夫婦による「夫婦漫才」で、「地下鉄の電車はどこから入れたの? それを考えてると一晩中寝られないの」というフレーズから始まる「地下鉄漫才」で、1970年代に一世を風靡します。地下鉄以外にも国鉄やバス、タクシーから飛行機、果てはエスカレーターからロケットまで様々な「乗りもの」を題材に、国鉄再建や公共交通の運賃値上げ、バスのワンマン化、次々進む地下鉄の新線建設など時事ネタを繰り出していく漫才は、今聞いてもニヤリとしてしまいます。

というわけで、せっかくなので10分くらい見ていってください。僕は最初のバスのネタが皮肉たっぷりで好きです。

左のボケのおっちゃんが春日三球です。右のツッコミのおばちゃんが三球の妻、照代です。二人は1964年に結婚し、翌1965年からコンビを組んで活動を始めます。地下鉄漫才で大ブレイクしますが、それから10年後の1987年に照代がテレビ番組収録中にくも膜下出血で急逝し、三球は妻と相方を同時に失うという憂き目に遭ってしまうのです。

実は三球は照代に会う以前にも相棒を失ったことがありました。1957年に「クリトモ一休・三休」の「三休」としてデビューした三球は、1962年3月のNHK漫才コンクールで優勝し、いよいよスターダムに上り詰めようというその時、コンビの相方「一休」こと内堀銀司を国鉄三河島事故で亡くしているのです。

乗りもの漫才でヒットした三球が背負う、鉄道事故の悲しい記憶。時は1962年5月3日に遡ります。

東京都荒川区の国鉄常磐線三河島駅付近で貨物線から本線に合流する下り貨物列車が、信号を誤認して車止めに乗上げ脱線しました。下りの線路上に傾いて止まった機関車に、上野発松戸行下り電車が接触し脱線、これも車体が上りの線路上に大きく傾いて止まります。車内に閉じ込められた乗客が焼死した1951年の桜木町事故の教訓から非常用ドアコックの周知が進んでいたため、乗客はドアを開けて線路上に避難を始めました。しかし、この時上り線を走行中の列車に事故発生の知らせは届いておらず、防護手配も行われていませんでした。

そこに突っ込んできたのが上り上野行電車です。電車は線路上に避難していた乗客を跳ね飛ばしながら、上り線路を支障していた取手行電車に衝突し、一部の車両は高架脇に転落しました。貨物列車の信号見落としが、二重三重の事故を引き起こし、160名が死亡する未曽有の大惨事となってしまったのです。

横浜の舞台の仕事からの帰り道、一休と三休は事故に巻き込まれた下り取手行電車に乗っていました。三河島駅まで着いたとき、三休は「うちに寄ってけよ」と声をかけました。松戸に住んでいた一休は、帰り際に三河島駅近くの三休の家によく立ち寄っていたのです。ところが、この日の一休は珍しく誘いを断って松戸に直帰していきました。これが二人の運命を大きく変えてしまうのです。

ひとり手持無沙汰で駅前のパチンコ屋に入った三休は、ひっきりなしに鳴り響く救急車のサイレンを聞き、三河島駅で事故があったこと知ります。後続列車で何かあったのだろうと、三休は漠然と思っていました。

貼り出される犠牲者の名前(出典:時事画報社『フォト』1962年6月1日号)

連絡があり、三休が荒川三丁目の浄正時に駆けつけたとき、一休はすでに白い棺の中に横たわっていました。紺の背広は血で茶色に変色していました。貨物列車の運転士の不注意から連鎖的に発生した大事故は、スター街道を登ろうとしていた若手漫才師の夢を引き裂いてしまったのです。

三河島事故がなければ生まれなかった三球・照代の地下鉄漫才。鉄道ネタで再びスターになった三球は、一休の墓前で何を思ったことでしょうか。