2011年3月11日以前、地下鉄は一度だけ臨時の終夜運転をしたことがある

[1957-1973]

2011年3月11日、東日本を襲ったマグニチュード9.0の巨大地震は、東北地方を中心に甚大な被害をもたらしました。

震源から遠く離れた東京でも建物の崩落などにより7名が死亡し、鉄道をはじめとする各種交通機関は全面的にストップしました。首都圏の輸送の多くを担うJRが当日中の運転再開を断念したことで多くの帰宅困難者が発生し、徒歩で帰宅しようとする人々で道路は埋め尽くされました。内閣府の調査によると、500万人以上が当日中に自宅に帰れなかったと推計されています。

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そんな中、いち早く動き始めたのが地下鉄でした。当日の深夜22時過ぎに銀座線から順次運転を再開し、そのまま終夜運転を実施したのです。大晦日から元日かけて行われる終夜運転は事前の準備があってこそ可能なものであり、ましてや非常時に急遽機材と人員の態勢を整えることは簡単なことではありません。

東京メトロと都営地下鉄の終夜運転は(運転再開を断念したJRと対比もされつつ)例のない英断だと称賛されました。しかし地下鉄が異常事態を受けて急遽終夜運転を行ったのは、実は東日本大震災が初めてではありません。

1973年4月24日に行われた、営団・メトロの正史には記録されていない終夜運転。その夜、東京で一体何が起こっていたのでしょうか。

順法闘争への怒りが爆発した「上尾事件」

1973年、国鉄には春の嵐が吹き荒れていました。国鉄の労働組合「国労」と「動労」は、合理化反対やスト権奪還を掲げて、2月1日から順法闘争を展開します。

順法闘争とはストライキを禁止されている国鉄において、列車の運行自体は継続しながらも安全確認などの諸規定を過度に順守して遅延や運休を発生させ、ストライキと同等の影響を与えようとする争議戦術です。首都圏のダイヤは連日大きく乱れ、それでも運休ではないため出社せざるを得ないサラリーマンたちは、わずかに運行される超満員の列車による通勤を余儀なくされていました。

利用者の怒りが爆発したのが、1973年3月13日に高崎線上尾駅で発生した暴動「上尾事件」でした。

朝日新聞(1973年3月13日夕刊)

第2次順法闘争の2日目となったこの日、朝ラッシュ時間帯に1時間以上も列車が来ず、やっと来た列車も超満員。上尾駅で待っていた5000人以上の乗客は誰一人乗車できる状況にありません。職員は強引に列車を発車させようとしますが、乗客の一部がそれを妨害しようとして車両の窓ガラスを割り、逃げた運転士を追って駅施設も破壊するなど、大規模な暴動に発展してしまったのです。

事件を受けて国労と動労は順法闘争を中止、国鉄当局との労使交渉に臨みますが、それでも妥結には至らず4月から順法闘争は再開されました。当初は首都圏通勤路線での大々的な闘争実施は控えられたものの、4月26日、27日の交通ゼネスト(国鉄や私鉄、バスが一丸となった全面ストライキ)に向けて順法闘争が強化された1973年4月24日、事件は起こります。

都心全体に怒りの炎が燃え移った「国電暴動」

この日は朝からダイヤが大きく乱れ、夕方には大宮駅で1時間以上列車が来ないことに腹を立てた乗客が駅事務室を一時占拠する騒動が起きるなど、首都圏の各駅には不穏な空気が流れていました。帰宅時間帯になっても列車はまともに動かず、20時半を迎えた頃、ついに赤羽駅で乗客の怒りが着火しました。

事の次第は上尾事件と同様です。普通列車を待つ乗客で溢れた赤羽駅東北線ホームに到着したのは、上野駅発車時点で超満員となっていた普通列車扱いの急行列車で、とても赤羽駅から乗車できる状況にありません。乗客に詰め寄られた急行の運転士が列車を捨てて逃走すると、乗客は列車の窓ガラスを割り始めました。

東北線の運行が全面的にストップすると、今度は上野駅でも動かない列車への投石が始まります。暴徒化した乗客は運転士を電車から引きずり降ろして運転室の発煙筒に火を付けると、騒乱状態は一気に駅全体に広がり、駅事務室や出札窓口など駅施設も破壊されて駅機能は完全に停止してしまったのです。

騒乱は上野から都内の各駅に波及します。上野駅の情報が入ってきた新宿駅でも各所で騒ぎが発生すると、21時半過ぎに山手線の運行がストップしたのを合図に乗客が駅事務室に突入、西口では駅や売店の売上金が奪われたり、東口では鉄道公安の事務室が放火される大暴動に発展しました。21時45分頃には山手線・京浜東北線・赤羽線・東北本線・高崎線・常磐線など首都圏主要路線が運行を取りやめとなり、最終的に都内38駅で駅が占拠されたり、券売機や車両などが破壊されました。

国鉄から営団に終夜運転要請

後の調査によればこの日の暴動で被害を受けた車両は100編成近くにも上り、そのうち半数以上は長期間の修理を有する状態でした。仮に暴動が収まったとしても運転を再開できる状況になく、国鉄は私鉄、地下鉄に振り替え輸送を依頼しますが、駅の騒乱は深夜になっても収まる気配を見せません。

とにかく都内の人間だけでも家に帰して騒ぎを少しでも鎮静化させたい国鉄は、運輸省を通じて地下鉄に終夜運転を要請、その連絡は23時過ぎに営団の指令所に届きました。既に終電を午前2時まで延長することは決まっていたものの、終車延長と終夜運転では対応が全く異なります。

当日の夜間保守作業の中止はもちろん、翌日以降の運行計画も踏まえた車両の手配、乗務員や駅員の確保をした上で、臨時の取り扱いを徹底しなくてはなりません。「もし保線車両が本線に入ってしまったら…」「乗務員の手配がつかなかったら…」「駅のシャッターを下ろしてしまったら…」心配は尽きません。それでも受諾から1時間で準備を整え、営団初の臨時の終夜運転を完遂したのです。

結局、国鉄線は翌25日の10時過ぎまで運行を再開できず、その後も車両や設備の復旧が済むまで一部列車の運休を余儀なくされたため、輸送を一手に引き受ける形となった私鉄・地下鉄・バスの混乱は続きました。

奇しくも1973年と2011年の両方とも、動けなくなった国鉄/JRを救済する形で行われた終夜運転だったわけです。鉄道のネットワークは事業者間の相互の連携と助け合いによって初めて機能するのと同時に、事業者と利用者の相互の苦労と共犯関係にも支えられて動いているのです。次の異常事態と終夜運転は、はてさて、いつの日のことになるでしょうか。