駅員さんはコックさん―地下鉄にみる「食当」の歴史のはなし

[1927-1936]

24時間365日動き続ける鉄道の現場と切っても切り離せないのが食事です。伝統的に職場内で自炊してきた鉄道現業は、文字通りの「同じ釜の飯を食った仲」として働いています。食事を作る係は「食当(食事当番)」と呼ばれ、多くも人は憂鬱な気持ちで、一部の人は心待ちにしているとか。

どこの会社にもシェフ顔負けの腕前の駅員がいるという”伝説”がありますが、言うまでもなく全員がそうであるはずはありません。むしろ若い男性は自炊経験のない人の方が多いのですから、鉄道会社に勤めている方なら新入社員の「やってTRY的エピソード」を耳にしたことがあるはずです。

「今時の若者は」とピラミッドに書いてあったとかなかったとか、ご多分に漏れずこうしたエピソードは昔からあったようで、40年前の新聞記事にも次のような逸話が紹介されています。

「ナニッ、職場におフクロさんを連れてきたって。どうしたんだ」
「食事当番なんです。ボク、家でつくったことないんで、それで…」
「先輩につくり方を教えてもらえばいいじゃないか。なにもおフクロさんまで……。でも、せっかくだ。うまいものをつくってもらおう。一回だけだぞ。……じゃあ、お母さん、すいませんが、お願いします」
――かつて営団茅場町駅と四ツ谷駅であった話である。

出典:毎日新聞「駅員さんはコックさん」1977年12月14日

ここまでくると「料理のできない新人」というのは、鉄道業界における一種のフォークロアなのではないかという気さえしてきます。

「何もできない」と家族に悩みを打ち明けた同僚がいた。翌日、母親が、マグロを一本かついで駅務区にやって来た。あぜんとする職員の前で手際よく包丁をさばき「息子をよろしく」。注意する間もなく、洗剤をパッパッと入れて、米を研ぎだした新人もいた。

出典:朝日新聞社『地下鉄物語』1983年

こうしたエピソードを検証するのが目的ではないのでこれ以上深追いはしませんが、いつの時代も食当を巡る悲喜こもごもがあったことは間違いなさそうです。しかし近年は外食産業の発達や、駅員の負担軽減、衛生上の問題などもあり、食当を廃止していく動きもあるようです。

この食当がいつから行われていたものなのか、社内事情は記録に残りにくいためはっきりしたことは分かりませんが、とりあえず手元に豊富な資料がある地下鉄を題材に振り返ってみることにしましょう。

東京地下鉄道の食事事情

1927年に開業した日本初の地下鉄ではどうしていたのか、少なくとも初期は駅で食事を自炊することはなかったようです。例えば1931~1932年頃の駅の環境について、以下のように語られています。

浅草駅には車掌、運転手の詰所はありましたが、女子はそこを利用できません。主要駅の出札所の片すみで食事をしなければなりません。中間駅の人は弁当をもって主要駅に行くか、柱のかげにしゃがんで食べるなど、まる乞食のようです。忙しくて交代もなかなか来てくれないときは食事もできません。

出典『もぐらのうた―1932年東京地下鉄争議記録集』

当時は調理場はおろか、落ち着いて食事をする場所すら用意されていなかったため、片隅でお弁当を食べたり、外食したりしていたようです。

1932年の「もぐら争議」における会社への要求は便所・食堂・更衣所・休憩所など基本的な設備の要求が中心で、「水道、ガスを整備して、簡単な炊事のできるようにしてほしい」という要望もあったようですが、駅で自炊することまでは想定されていませんでした。

というのも、この頃は駅で寝泊まりしていたわけではなく、男性駅員は本社近くの宿舎に泊まっており、女性駅員は自宅から通勤していました。駅員は本社で点呼を受けたあと、送り込み列車にのって各駅に移動し、開業の準備をしていたのです。営業終了後は同じように回送列車が各駅の駅員をピックアップしながら車庫に戻っていきました。一路線、最大でも12駅しかない頃はこれで十分足りていたのです

なかなか届かなかった配給米

では、駅の自炊文化はいつ頃から始まったのでしょうか。これも定かなことは分かりませんが、1972年の毎日新聞の連載記事にヒントがありました。

この自炊、いつから始まったのか。

「戦後、配給米のほかに労務加配米が支給されたころからだと思います。食料不足で肉なしの、野菜ちょっぴりのカレーが多かった。御茶ノ水駅の助役だったころ、神田川の土手に生えていたニラを取ってきて”ニラカレー”をつくったりもしました。今思い出しても懐かしいですね」

と、中泉弘・営団営業部庶務課長はいう。

出典:毎日新聞「駅員さんはコックさん」1972年12月14日

主食の配給制度は太平洋戦争が開戦する直前の1941(昭和16)年4月1日から六大都市で始まり、戦後も1955年まで行われました。御茶ノ水駅が開業しているということは、中泉庶務課長のニラカレーは1954年以降ということになりますから、配給米の時代とはちょっと違うことになるのですが、大きな手掛かりであることは間違いなさそうです。

主食配給制度を振り返ってみると、1941年に開始された当初の「配給米」は成人男子1名1日2合3勺(330g)で、労働者には加えて「労務加配米」が支給されています。やがて戦争の長期化や不作で米不足となり配給が滞るようになると、1945年5月に節約と合理化のためと称して、それまで個人に直接配給していた「労務加配米」を事業者を通じて支給するように改められました。さらに終戦直前の1945年7月には主食配給の一律10%削減が閣議決定され、食糧事情は更に厳しさを増すことになります。

戦後の食糧事情が生んだ自炊文化

戦争が終結しても食糧事情は好転するどころか悪化するばかりで、食糧配給はなかなか入ってきません。1947年12月には食糧管理法が改正され、主食の代用食として馬鈴薯・甘藷・雑穀も加わるようになります。

たびたび紹介している吉村新吉氏は、1947年ごろの食料事情について次のように回想しています。

当時の食料事情だが、なにしろ食料配給も滞りがちの当時、すいとんが全盛で、塩湯にそれも醤油とは名ばかりの黒く色付けされた液体を入れて沸騰させ、小麦粉やらトウモロコシ粉、フスマ粉などをこね回して、たらりたらりと落とす。もちろん他に調味料とか野菜とかそんな結構なものは拝めない。休憩時間にフーッフーッとさまして食欲を満たす。

だんだん食料事情がよくなって労務加配米などが入るようになると、個人ごとに小さな金属の器に青豆や芋を加えてそれを研ぎ、蓋に時間を白墨で記入しておく。予備運転士がそれを誤りなく降車時刻に併せて炊いておく。二個の小さなヒーターで泊まり勤務者の十五、六個を時間通り炊き上げるのは大変な作業だが、中にはそれが好きで勤務を交代してまで担当する者もいたのは、あまり得意でない私には不思議だった。

出典:吉村新吉『巷説東京地下鉄道史 もぐら見聞録』

戦時中、まともに食料が手に入らない中では各々が粉を捏ねてすいとんを食べていました。しかし米が配給されるようになると、すいとんを茹でるのに比べて米を炊くのには時間がかかるため、予備運転士が食事の時間に合わせてご飯を炊いておく習慣が定着したと考えられます。会社経由で入ってくる労務加配米を、効率良く時間通りに食べるための仕組みが、食事当番制の始まりだったのではないでしょうか。

その時期は、食糧事情が好転し始める1948年から1950年代前半にかけてのことだったと思われます。中泉庶務課長の思い出のニラカレーも、米は手に入るようになったものの、その他の食料は決して潤沢ではない時代に、皆で食料を持ち寄って自炊していたことを示すエピソードなのでしょう。

そう考えると、自炊の方がかえって高くついてしまう飽食の時代に、もはや食当は役目を失っているようにも思えます。好みやアレルギーの問題もありますし、それぞれ好きなものを食べた方が合理程なのは間違いないのでしょうが、それでも戦後の苦しい時代を乏しくも同じ釜の飯を食いながら乗り越えてきた記憶を伝える風習が、無くなってしまうのも少し寂しいような気もします。

鉄道現業員の皆さん、御社の食卓事情はどんな感じですか?