1月27日、土曜日。銀座は曇り、ところにより500㎏爆弾

[1937-1945]

1944年7月18日、サイパン島守備隊の玉砕が発表され、あわせて絶対国防圏が破られたことの責任を取って東条内閣が退陣した。日本まで約2500㎞の距離にあるマリアナ諸島の陥落は、7トンの爆弾を満載して3000㎞以上を往復できる能力を持つB29が日常的に日本上空に飛来するようになることを意味していた。

それから4カ月後の1944年11月24日からマリアナ基地を拠点とする本格的な本土空襲が開始された。まずは東京、名古屋の軍需工場を目標とした爆撃から始まり、次第に都市・住宅地を対象とした空襲が本格化していくことになる。

被害の大きさでいえば1945年3月10日の「東京大空襲」や、同年5月25日の「山手大空襲」がよく知られているが、1945年1月27日に行われた「銀座空襲」は、工業地域から都市部へと攻撃目標が移っていく中で、東京都心部に大きな被害を出した初めての空襲として一般市民に強い衝撃を与えたと言われている。

午後1時20分頃警戒警報発令され、暗室の仕事を中止して武装、3階警務課に走る。まもなく空襲警報が出されたので、地下の防空本部に降りる。坂警視総監以下幕僚消防部が望楼に上るというので、私もカメラ片手に走る。(中略)

間もなく再び頭上にB29独特の爆音が聞こえてきたが、今度はさっきより距離が非常に近くに聞こえるが矢張り敵機は見えない。その時ザーと砂利を鉄板の上にぶちまけたような音がした。

坂警視総監は大声で「伏せろッ」と怒鳴った。てっきり間近に、悪くするとこの地点に爆弾投下されたと思った。幕僚はみんな伏せている。私はどうせ飛ばされるのなら撮影してからカメラを死んでも離すまいと思って構えていると、ドカンドカンと眼前新橋から銀座、京橋の線に投爆、焼夷弾混用らしく黒煙が数十本上り、たちまち火災が6、7か所に発生した。

出典:グラフィック 東京大空襲の全記録

この生々しい記録は、警視庁のカメラマンだった石川光陽が残したものである。石川は空襲被害が高度な軍事機密だった時代に、警視総監の特命により東京の空襲被害を撮影・記録していた人物であった。現在まで伝わる空襲被害の写真の多くは彼によって撮影されたものである。

次の写真は当時霞ケ関にあった警視庁庁舎の屋上から銀座方面を撮影したもので、上空でB29が投弾する中カメラを構え続けて爆撃の瞬間を捉えた数少ない記録である。

右手の日比谷側から左手の京橋側へ、B29の飛行方向に沿っていくつもの爆炎が立ち上る。彼は冷静に着弾直後、5秒後、10秒後の3枚の写真を撮影した。

この時飛来したB29爆撃機は武蔵野の中島飛行機工場を攻撃目標として飛来したものの、悪天候により目標を確認できなかったため帰り際に都心部で投弾していったと言われている。後に行われる焼夷弾を主体に火災発生を目的とした空襲ではなく、工場を破壊するために通常爆弾を混用した爆撃だったため、日比谷から有楽町、銀座にかけて建物に大きな被害をもたらした。

残されている写真や証言から、銀座付近の着弾箇所を地図にプロットしたのが次の図である。爆弾はこの他にも築地、八丁堀や京橋にも被害をもたらしたというが、ここでは中心部に絞って記載している。

明治以来の商業の中心地であり、モダン文化の象徴として謳われた東京都心のど真ん中に、爆弾の雨が降り注いだ。中央区史によると、通常爆弾46発、焼夷弾23発が着弾したと記録されている。

まだ空襲の恐ろしさを実感していなかった都会の人々は、避難を呼びかける声に耳を傾けずに、B29の爆音が響く曇り空を物珍しそうに眺めていたという。

帝国ホテルや日劇のすぐ傍にも爆弾が落ちて、周囲の人は吹き飛ばされ、付近で大規模な火災が発生した。都心は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

有楽町駅では改札付近とホームに250kg爆弾が直撃し、100名以上が一瞬で吹き飛んだ。見慣れたレンガアーチの東海道線高架線に電車が止まっているが、この列車は被害を免れたのだろうか。

先日アルマーニの制服問題で話題となった中央区立泰明小学校、当時の泰明国民学校にも爆弾3発が落下した。疎開により児童の被害はなかったが、天井を突き破って爆発した爆弾により教員4名が死亡した。

地下鉄もこの空襲の被害から免れることはできなかった。銀座四丁目交差点にも500㎏爆弾が投下されたのである。

銀座新橋寄西側出入口付近約3メートルの箇所に爆弾落下し線路構築上部まで到達して爆発せるものの如く路面に穿たれたる漏斗孔は径約15メートル深さ約5メートルにして前記駅出入口の路面近くは破壊され下部階段には亀裂を生じ鉄骨鉄筋コンクリート構築には幅2.8メートル長さ約3メートルの孔を生じ鉄骨コンクリート桁を折損の上……構築上部に敷設しありたる水道鉄管(内径800ミリ)も同時に破壊され大量の水は放出し土砂と共に隧道内に流入して延長約40メートル余線路を埋没す浸水は逐次増水し17時頃には京橋駅迄浸水し軌条面25センチに達す

帝都高速度交通営団「戦時鉄道災害情報報告」より

爆弾が落下したのは鳩居堂の前、銀座和光を背景にして東京メトロのポスターなどにもたびたび登場する現在のA2出入口の真横だった。頑丈な鉄筋コンクリート造りの駅構築物も大型爆弾の前には無力であって、道路には大きなクレーターができ、破壊された水道管から水が噴き出して、駅構内に流れ込んだ。

爆発により鳩居堂は炎上し、地下鉄出入口は枠組みを残して崩壊した。下の写真は空襲直後に、銀座四丁目交差点を銀座三越前から新橋方面に向かって撮影したものであるが、右の黒煙を上げて炎に包まれているのが鳩居堂で、その前にある黒い残骸がA2出入口だ。

土砂が破壊された出入口に流れ込み、空襲警報を受けて地下鉄構内に避難しようとした7人が犠牲となった。左下は生き埋めになった人たちを懸命に掘り出そうとしている消防隊員の写真である。

現場に駆け付けた石川は、銀座駅の様子を次のように記している。

地下鉄の他の入口から中に入ってみるとプラットフォームは水浸しで、軌道は流れる水道の水で見えない。埋没した通路まで来てみると、鉄のシャッターがおろされていて、そのシャッターが土の重みで内側に湾曲して弧を描いて膨らみ、その土砂御下に埋もれた7人はシャッターにぴったり押し付けられて虫の息でいる。

右下の写真は空襲から2日後のA2出入口の残骸を写したもの。跡形もなく破壊されている様子が分かるだろう。

爆弾による損害は出入口だけに留まらなかった。爆発の衝撃で、銀座線のトンネルの天井には大穴が空き、電車は不通となった。被弾箇所は銀座駅ホーム新橋寄りの信号扱所とその先のポイントのちょうど中間地点というから、下の写真でヘッドライトに照らされているあたりだろう。

この写真からはトンネルの空襲の痕跡を窺い知ることはできないが、実はその手前に被害の跡が残っている。銀座駅ホームの一番新橋寄り、2番線側(浅草方面)の側壁だけ構造が違うことに気づくだろうか。下の写真で壁面に「銀座」と駅名が書かれたところより左側だけ天井から続くコンクリートの幅が広くなっている。

1977年に地下鉄50周年を記念して発行された記事によると、この部分は壁にひびが入り、上部がずれて手前に飛び出していたという。構造上強度に問題はないということでそのまま使われていたようだが、1980年代の駅改装で見えないように埋めてしまったのだろう。

また、その手前の鉄骨にも歪みを叩きなおした跡が残っており、爆発の衝撃を現在に伝えている。

この「銀座空襲」では約500名が死亡したという。

後に起こる惨劇と比較すれば犠牲者の桁は違うけれど、この日のことも語り継がられねばならないはずだ。


開業時(1934年)の銀座駅改札口。10年後にこんなことになるとは誰が想像しただろうか。

たった5~6年前までおしゃれな人々が行き交い、自由と繁栄を謳歌していたこの銀座の真ん中に、爆弾が降り注ぐ様子を人々はどんな気持ちで見上げていたのだろう。自分たちが中国で、真珠湾で、東南アジアで降らせていた爆弾の雨について、自分の身に返ってくるまで気づかないふりをしていたのだろうか。

止まない雨はない。でも、二度と繰り返してはならない。