丸ノ内線は池袋と新宿を繋げて「丸」くすればよかったのにと思ったあなたに伝えたいこと

[1927-1936]都市交通の立体化

悪い東京人に「池袋から新宿なら丸ノ内線で1本で行けるよ!」なんて騙されかけた人はいませんか。池袋と東京を一直線に結んだかと思えば、ぐるっとカーブして新宿・荻窪方向に向かっていく丸ノ内線って不思議な形をしていますよね。

中途半端な形だなぁ。どうせなら池袋と新宿を繋げて山手線みたいに環状線にすればよかったのに、なんて路線図を見ながら思ったことがある方もいるのではないでしょうか。なぜ丸ノ内線はこんな形になったのか、いえ、この形でなければならなかったのかを、歴史を辿って見ていきたいと思います。

丸ノ内線は戦後初めて開通した、東京で2番目の地下鉄路線です。1954年に池袋・御茶ノ水間で開業すると、東京、銀座(当時は西銀座)、霞ケ関と徐々に延伸開業していき、1957年に池袋・新宿間が全通しました。その頃の山手線周辺の路線図はこんな感じです。

既に私鉄は今の路線網がほぼ出来上がっています。薄緑色の線は都電(路面電車)で、地下鉄は銀座線と丸ノ内線の外にはまだ開業していません。山手線の内側を都電と地下鉄が網の目のように走っているのが分かります(都電が走っていたルートのほとんどをここから数十年かけて地下鉄に置き換えていきます)。

ただこれだけでは丸ノ内線のルートの意図が見えにくいので、1930年代中盤と1950年代後半ふたつの路線図に補助線を入れて比較してみたいと思います。まずは1934年頃の路線図を見てみましょう。

大前提として東京は今よりももずっとずっと小さな町だったことを忘れてはいけません。当時の都心と呼ばれるエリアとは下の地図のピンクの丸を付けたあたりで、江戸以来の中心軸である日本橋から新橋にかけての中央通り沿い、明治以降に整備された虎ノ門・霞が関の官庁街、そして大正時代に入って開発が本格化する新興ビジネスセンター丸の内で構成されています。現在の都庁にあたる東京市役所と東京府町の合同庁舎は現在の東京国際フォーラムの位置にありました(新宿に移転したのは1991年、そんなに昔のことではありません!)。

明治の末から大正の初めにかけては、下町一帯と山手一帯に広がる住宅地から路面電車で都心に通勤するスタイルが一般的でしたが、関東大震災を前後して山手線の外まで郊外化が進み、池袋、新宿、渋谷をターミナルとする私鉄の開業が相次ぎます。1934年頃には私鉄から山手線や中央線に乗り換えて都心に向かうサラリーマンは相当増えており、既にラッシュ時は6両編成4分間隔の運転が始まっています。

更に利用者が増えていくと、山手線だけでは足りなくなっていきますし、もっと直線的なルートで早く都心に到着する交通機関が求められるようになっていきます。銀座線の渋谷・新橋間はそうしたニーズに応えるべく、(現在の)東急系の資本によって建設されました。

渋谷から都心への短絡ルートができたら、次は池袋と新宿にも欲しいですよね。そうして作られたのが丸ノ内線です。

そう、一部が欠けた中途半端な円形にみえた丸ノ内線のルートは、池袋から都心と、新宿から都心の2つの路線をつなぎ合わせた形をしているのです。これによって池袋、新宿、渋谷の三大ターミナルから都心への移動経路がそれぞれ2本になり、輸送量は各段に増えました。

赤坂見附で銀座線と丸ノ内線が同じホームで乗り換えできるのは、新宿・渋谷の利用者が丸の内側と銀座・日本橋側のどちらにも行きやすいようにするためです。同じく池袋の利用者も都心の両側に行けるようにするために、丸ノ内線は神田を経由して銀座線と乗り換えできるようにする計画でしたが、神田駅周辺の用地が確保できずに断念され淡路町経由になりました。丸ノ内線の線路が銀座付近だけ唐突にJR線の外側にはみ出しているのは、神田乗り換えを断念する代わりに丸ノ内線も銀座(当時の名前は西銀座駅)を経由することにしたためです。

計画通りにできていれば神田から赤坂見附までが東京駅の内と外の二つの円弧で結ばれ、郊外から入ってくる人がどちらにも行きやすい便利なネットワークになっていたことでしょう。

(丸ノ内線の新型車両は「丸」いらしいよって記事はこちら)

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