東京大空襲と交通営団―1945年3月10日未明の戦い

[1937-1945]

お詫び:この記事は原典の記述に誤りがあったため、2018年8月11日に改稿しています。検証・お詫び記事はこちらです。

1945(昭和20)年3 月10 日未明、アメリカ軍のB29 爆撃機300 機が超低空から帝都上空に侵入し、約2,000 トンの焼夷弾による絨毯爆撃を行った。この空襲で40平方キロメートル以上が焼失、8万人以上が死亡した。

 

まず浅草が炎に包まれた。既に地下鉄の運転は終了しており、銀座線浅草駅1番出口に併設されていた浅草雷門ビル(2006年解体)の乗務員事務所に待機していた職員が消火活動に当たった。

この空襲による大火災は、浅草雷門の現在乗務区のあるビルディングをも猛火に包み、その火は隅田川を越えて向島に燃え広がった。その猛火にもかかわらず、当夜勤務に当たっていた乗務職員は爆弾の落下する最中、火熱のために割れた飛び散った窓硝子から襲いかかる火焔をビル内に入れぬよう、合宿所の畳をはがし、これを水に浸して窓をふさぎ、強風のため倒れかかるこれらの畳をおさえ、水をかけながら必死の防火に挺身し、職場の焼失を防いだのであった。

出典:帝都高速度交通営団『地下鉄運輸五十年史』p.296

他の文献や空襲の状況から2月25日の空襲時のものと考えられるため以下削除

一方、上野の営団本社にも火災が迫っていた。営団本社ビルは現在の東京地下鉄本社ビルと同じ位置にあった建物で、かつては壁面に東洋一の大時計を設置した「上野地下鉄ストア」として親しまれていたが、当時はほとんどを事務所として使用していた。

戦後すぐの営団本社ビル

営団では2階南側の窓から類焼の危険が多いので、2階の運輸部当直員は応援の上野駅員と共に一体となって、先ず南側の窓に近い机や椅子、書類戸棚を悉く急拠北側の窓付近に移し大きな酒樽を3個程置いてリレー式に水を運び、これを満水してバケツにより南側の空室になった場所をびしゃびしゃに水を撒いた。

又東南隅にあった運輸部長室も囲いを破裂して部屋内の凡ての物を北窓方面に移して同様に水びしゃにした。あっという間もなく南側の窓より3米に及ぶ大きな火炎が入ってきたので、バケツ消火班は必死となって大きなかけ声と共に手早く水をかけた。やがて隣家の火勢が弱まると共に、窓より入った火炎もなくなってきた。

若し2階が焼失すると、階段やエレベーターによって上層階の火災危険は大きくなるので、2階の防火でこのビルの災害を厄れたのである。2階の一同は空腹になったが食べるものがないので樽の水で乾杯し万才を三唱した。営団ビルから北側一帯の民家が戦災で焼失してないのは、このビルが防火壁の役目を持ったためである。

出典:帝都高速度交通営団『地下鉄運輸五十年史(総括編)』p.126

ここまで削除。東京大空襲の際に浅草方面から延焼してきた火災が稲荷町付近で食い止められたことは確かである。

航空写真の赤い点線で囲った部分は、空襲で焼けずに残ったエリアを示している。黒っぽく見えるのは焼け跡ではなく屋根の色で、その他の白い箇所は焼け跡にバラックなどが建っている。

東京メトロ銀座線リニューアルサイトより

この中には現在も使われている銀座線の車庫があるが、もしここが全焼していたら地下鉄の運行が全面的にストップしただけでなく、戦後の営団の歴史も変わっていたかもしれない。

当時この区域に住んでいた人によると、大空襲時に営団職員に促されトンネルに逃げ込んだという話がある。そのまま地下を歩いていくとその先には上野駅があったというので、地下鉄の車庫附近から坑口に入って避難したのだろう。

このエピソードは他の書籍や個人サイトでは見たことが無いので真偽は不明だが、地上にある地下鉄渋谷駅では空襲が激しくなると重要書類や重要備品をもって付近の井の頭線のトンネルに退避したという逸話もあるので、そういうこともあったのかもしれない。