総力戦と時差通勤―時差通勤はなぜ定着しないのか

[1937-1945]戦時輸送の時代

3月からセブン&アイホールディングスは、国内グループ社員の約3割に当たる1万人に対し、始業時間を8時、9時、10時の3つから選べる時差通勤制度を導入するそうです。

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フレックス制などの導入が一部の企業で進められているとはいえ、ほとんどの労働者にとっての「時差通勤」とは早朝に家を出るしか選択肢がありません。それで電車が空いているかというと、6時台でもそれなりに混雑しているので苦労の割にメリットが少ないのですね。そういえば去年の夏には小池都知事の旗振りで「時差BiZ」が推進されましたが、鉄道マニアが臨時列車に食いついた程度で忘却の彼方に消え去ってしまいました。

 

時差通勤は戦時中に生まれた

時差通勤の歴史は古く、第二次世界大戦勃発直後の1940年のロンドンで工業地域へ工員を輸送する鉄道路線の混雑緩和を目的として、軍需省が中心となって時差通勤を推進したという事例があるそうです。これは工業地域を半径0.5マイル程度に区切って「地区輸送グループ」を作り、グループごとに経営者・労働者・輸送機関によって自主的に始業時刻と終業時刻を調整させるもので、1944年には1,100社合計50万人以上の労働者を50以上のグループに分けて実施することで一定の成果をあげたといいます。

そして日本において初めて時差通勤が行われたのも、太平洋戦争も末期に差し掛かった1944年4月のことでした。戦時下において鉄道は戦争遂行を支える「兵器」と位置付けられ軍需輸送を優先する戦時輸送体制が構築されていましたが、戦局の悪化により内海航路が封鎖され、軍需工場への動員も拡大されるに至り、鉄道が果たす役割はますます重要になりました。鉄道輸送がスムーズに機能しなければ兵器の生産も滞るということで、遅ればせながら時差通勤が実施されることになったのです。

通勤事情は戦力増強の隘路となり居るも、輸送力の増強を望み得ざる状況において、通勤者交通混雑の緩和を図るため、4月1日より各方面の協力により時差通勤を実施せられたり。(中略)

中央総武線においては実施前は朝の通勤時急行15,6分、緩行20分以上の遅延を常とし、駅員は血みどろの旅客整理に当り、なおかつ遅延の増大を来たす実情なりたるも、実施後は急行2,3分延を散見するのみ

出典:角本良平(1956)『都市交通・その現状と対策』p.57

内容としては、工場勤務は7時始業、学校は8時始業、企業は9時始業が多かったため、官庁の始業時間を8時半に変更したということですが、ロンドンの事例と比較すると中途半端な印象が否めません。学校には10時始業への変更を要請したもののほとんど効果はなかったそうで、大日本帝国の国家総動員体制とは何だったのかと思ってしまいます。とはいえ一応混雑緩和の成果はあったということで終戦まで継続されました。

余談ですが、地下鉄銀座線で1944年10月10日から虎ノ門発・渋谷行の急行列車が運転された記録が残っています。これは新橋駅幻のホームに留置しておいた車両を出庫させて虎ノ門から客扱い、途中駅無停車で渋谷まで運転するというもので、夕方に3本運転されました。虎ノ門駅は当時霞ケ関官庁街唯一の駅ですから、この列車はいわば「戦時下のBizライナー」として、時差通勤施策に連動して設定されたものであることは間違いないでしょう。

 

総力戦としての時差通勤

イギリスにおいても日本においても、戦時中の運輸政策として時差通勤が誕生したということに、この施策の本質があるように思います。本来であれば輸送力の不足に対しては新線建設などで輸送力を増強して対応するものですが、戦時中という特殊な環境下においては緊急性からも資源配分の問題からもそうした対応が望めないため、人の方を輸送力に合わせるしかありません。個人の自由を制約、強制してまで実施するだけの理由がなければ到底成り立たない施策なのです。

ロンドンでは戦後も引き続き時差通勤を推進しますが、次第に効果は低下していったそうです。戦争という特殊な環境下では市民は団結し、国家のために日常生活の一部を犠牲にしてくれるかもしれませんが、戦争が終わっても引き続き自己犠牲を貫徹してくれる人は少ないでしょう。戦後ふたたび郊外化が進んで長距離通勤者が増えると始業時間を早めることは困難となり、また終業時刻を遅らせることで家族が食卓を囲めなくなることも受け入れられなくなりました。

それ以上に問題となったのは、第三次産業が中心となる時代においては、勤務時間が不統一になると関連する官庁、会社など相互の業務が円滑に遂行できなくなり、業務の能率が低下するということでした。1948年にロンドン商業会議所は時差通勤の問題点を次のように指摘していますが、これは現在もそのまま当てはまる本質的な課題であると言えるでしょう。

全労働者が同じ交通機関を利用する工場の場合には、各工場の労働者を同時に帰宅する事の無いように取り決めを結ぶことに何等異議を唱えるものではない。工場により、その始業及び終業時刻が30分異なることによって経済的損失は何もないからである。(中略)

しかしながら、外部の会社や公衆と絶えず接触しなければならない企業については事態は全く異なる。時差通勤は、これら各企業が毎日相互に接触する時間を減少させることにより、もし時差通勤を行わない場合と同一の業務量を行おうとすれば、必然的により短い時間内になさなければならないであろう。従って交通機関のピークの代わりに業務のピークが生まれ、能率を下げると同時に業務に要する時間を増すことになる。

出典:角本良平(1956)『都市交通・その現状と対策』p.54-55

総力戦体制が生み出した時差通勤は、条件も環境も変化した戦後にあっては消えゆくはずでした。

 

非常事態再び―1961年冬の輸送危機

ところが戦争が終わっても、戦後の混乱を乗り越えても、日本の鉄道だけは非常事態が解消しませんでした。戦前の時点でモータリゼーションを迎えていたアメリカ、イギリス、ヨーロッパ諸国とは異なり、日本においては戦後もしばらく鉄道が陸上交通の主役であり続けました。戦前・戦中の水準をはるかに超えて増加し続ける鉄道利用者数に輸送力増強工事は追い付かず、さらに高度経済成長期に突入したことで危機的な状況を迎えてしまったのです。

1961年1月上旬から半月にわたり、中央線や京浜東北線など首都圏の各線で通勤時間帯の混乱が続き、社会から大きく批判されるという「事件」が発生します。

冬は寒い早朝を避けて乗車時間帯が集中しやすく、また防寒具による着ぶくれのため元々混雑しやすいのですが、この時はついに輸送力の限界に達し、輸送がマヒ状態に陥ってしまったのです。たとえば1961年1月20日の中央線では途中駅で乗客が殺到して乗り切れず長時間停車したために、通常では朝のピーク30分に15本運転しているのが5本程度しか運転できない状況だったといいます(つまり輸送力は通常の3分の1になり、更なる混雑と遅延の悪循環が生じるのです)。

図は戦前から戦後にかけての首都圏主要路線朝ラッシュ時間帯の運転間隔の推移です。戦前から既に5分以下の間隔で運転されていましたが、戦後毎年のように本数が増えていき、1960年(昭和35年)には現在と同じ約2分間隔にまで達していることが分かります。これは複線路線の設備的な限界であり、これ以上の混雑緩和には複々線化または新線建設など抜本的な対策が必要だということを意味しています。

国鉄は莫大な費用を投じて通勤路線の輸送力増強工事を進めますが、完成まで今しばらく時間を要することから、新車の増備、係員の増員、ダイヤの見直しなどと合わせて「時差通勤」の呼びかけを行います。経済団体を通じて各企業に始業時間の変更を要請し、協力者数は当時の通勤通学者の1割にあたる20万人を突破、ピーク時間帯30分の平均混雑率を1961年1月に約300%だったところを、1962年1月は約280%に抑え込みました。通勤戦争とも言うべき非常事態を時差通勤によって乗り越えることに成功したのです。

 

平時に時差通勤を定着させるには

詳しく次に引用する記事が詳しいので割愛しますが、時差通勤はその後も政府主導で強力に推進されたにもかかわらず、局地的な事例を除き、大きな成功例はありません。

それは近年で唯一成功した時差通勤施策が、東日本大震災における電力危機に対して行われたものだったということと決して無関係ではありません。総力戦としての時差通勤は企業と労働者と交通事業者の利害が一致して初めて効果を発揮するもので、一方の当事者の思惑だけでは成立しないものですし、私たちは常時総力戦を強いられるような状況には耐えられないからです。

時差通勤がなぜ定着しないかというと、結局は非常時・総力戦に生まれた手法を平時に適用しようとしたところに無理があるからでしょう。本当に私たちの生活を豊かにする、多様性を擁護するための時差通勤があり得るとしたら、それは過去の取り組みとは切り離して初めて成立するものだと思うのです。